幻の浮世絵師・東洲斎写楽をデビューさせたのも蔦屋重三郎だった(写真:KIMASA/PIXTA)

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公として、一躍注目を浴びている「江戸のメディア王」蔦屋重三郎ですが、じつはその生涯は多くの謎に包まれているといいます。

度重なる幕府による弾圧に屈することなく、ひたすらに話題作を提供し続けてきた"蔦重"とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。「スタディサプリ」日本史講師の伊藤賀一氏が、その知られざる素顔に迫ります。

※本稿は、伊藤氏の著書『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化: 元祖・敏腕プロデューサーの生涯と江戸のアーティストたちの謎を解き明かす』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

メディア王の地位にがっちり指をかけた"蔦重"

江戸時代は、いわゆる「ブランド品」は酒を別にすれば、着物や装飾品、菓子などその製造元を兼ねる問屋でしか買えなかった。また、量産したところで販売網が整っておらず、支店で売る程度の話である。

顧客も問屋まで歩いて行ける範囲にほぼ限られるが、それでも商品は売り切れたほうがいい。

ゆえに、蔦屋重三郎が活躍した18世紀後半になると、黄表紙・洒落本など、寺子屋教育のみでも十分に読め、大衆からの需要が高かった娯楽出版物に広告が掲載されるとともに浮世絵自体が広告という場合もあった。

戯作者や狂歌師、絵師として名のある朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)、恋川春町(こいかわはるまち)、山東京伝(さんとうきょうでん)、四方赤良(よものあから/大田南畝)、宿屋飯盛(やどやのめしもり/石川雅望)、北尾重政、喜多川歌麿に加え、場合によっては奇才・平賀源内にまで依頼可能な蔦重にとって、各商品の問屋がスポンサーにつくこと(広告収入)で、大量かつ多岐にわたる出版物を出せる時代が到来したといえる。

しかも現代とは異なり、この時代は作家・画家という職業が確立していなかったがゆえに、彼らに謝礼を払うという発想もなく版元の取り分が多かった。こうして蔦重はメディア王の地位にがっちり指をかけた。

しかし、そんな蔦重にも落とし穴が待ち受けていた。御上(御公儀)からの弾圧・取り締まりである。

天明7(1787)年、14歳で政治未経験の11代将軍徳川家斉の治世を迎えると、29歳の老中首座・将軍補佐の松平定信は、緩い政策をとった田沼時代からの転換を目指した。

厳しい政策により幕府の権威を強め、農村復興をはかる理想主義的な改革、これが寛政の改革である。

定信は士風を刷新、文武を奨励し、綱紀の粛正をはかった。厳しい倹約令に、湯屋(銭湯)の混浴禁止など、これまで許されていたことが許されない。窮屈な雰囲気が蔓延し、江戸の街に暮らす下級武士・町人たちの不満が高まっていった。

幕府の厳しい締め付けを「ビジネスチャンス」に

その頃、日本橋に進出していた蔦重は、これをビジネスチャンスととらえた。幕府の改革を真正面からは批判せず、江戸庶民の心情を代弁した戯作で風刺し、徹底的に茶化すことで爆発的なセールスを記録したのである。

蔦重が版元になった当初から、序文(まえがき)や跋文(あとがき)、遊女評判記などで世話になってきた15歳上の朋誠堂喜三二は、安永9(1780)年以降、耕書堂(こうしょどう/蔦重が開業した版元兼書店)から出版された黄表紙や洒落本のヒットを飛ばしてきた。

蔦重はこのもっとも信頼する戯作者(喜三二)とともに、天明8(1788)年、黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』を刊行し、世に問うた。それは時代設定を鎌倉時代に置き換えているものの、内容は将軍家斉と老中定信の改革を茶化したものだった。

この作品は喜三二の親友で、人気作者・絵師の恋川春町が文武奨励策を題材として、他の版元から出版した黄表紙『悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)』に比べて、忖度なし、切れ味抜群の問題作であったが、ベストセラーを記録した。

しかし、幕府からの叱責を怖れた外様大名の秋田藩佐竹氏(喜三二の主家)に、喜三二は叱責され、執筆を自粛して戯作者から引退した。以後、喜三二は「手柄岡持(てがらのおかもち)」の名で狂歌師に転じる。

恋川春町が亡くなり、山東京伝も処罰される

寛政元(1789)年、喜三二の『文武二道万石通』に刺激を受けた恋川春町は、勇み立つ蔦重と黄表紙『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を刊行した。

内容は定信の教諭書『鸚鵡言(おうむのことば)』のパロディで、「文武両道、文武両道」と小うるさい改革を切り捨て、これまた大評判のベストセラーとなった。

しかし、黄表紙による相次ぐ批判に激怒した定信から絶版処分を受け、さらに恋川春町は江戸城への出頭を命じられた。しかし、彼は病気を理由にこれを辞退すると、譜代大名の主家・小島藩松平氏に迷惑をかけたとして、おそらく自害したようだ(死因には諸説あり)。

一連の動きを見た幕臣の大田南畝(四方赤良)は、身の危険を感じ黄表紙・洒落本・狂歌・狂詩などの文芸活動全般を一時自粛した。

さらに寛政2(1790)年、幕府は8代将軍徳川吉宗が享保7(1722)年に出した出版統制令の増補修正という形で、5月に書物問屋仲間、10月に地本問屋仲間、11月に小売・貸本屋に対して出版統制令を出した。

これにより政治批判や揶揄は許さず、原則として書籍の新規刊行は禁止。刊行する場合は、町奉行所の許可が必要となった。そして、風俗や秩序を乱す好色本は絶版、速報ニュースを扱う瓦版も内容を自粛する方向に入り、切れ味を失った。

しかし、蔦重は懲りない。

当時、すでに山東京伝が3冊の洒落本『仕懸(しかけ)文庫 』『錦之浦』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』の執筆中だった。蔦重は、幕府による出版統制の中でなんとか発売にこぎつけたものの、これが幕府の逆鱗に触れる。黄表紙のような政治批判や揶揄ではなく、洒落本は遊里(遊郭)小説なので「風俗や秩序を乱す」と判断されたのである。

寛政3(1791)年、町奉行所の判決が出て、3冊の洒落本は絶版、作者の山東京伝は手鎖50日(両手首に手鎖をはめ自宅謹慎)、版元の蔦重は身上に応じた重過料(罰金刑)を科せられた。

江戸でもっとも有名な戯作者と地本屋を処罰したことは、「寛政異学の禁(幕府の聖堂学問所で朱子学以外の講義・研究を禁止)」や林子平の処罰とともに、「寛政の改革」の思想統制の厳しさを示す事例として、すべての高校日本史の教科書に掲載されている。

先に触れたとおり、寛政3(1791)年、3冊の洒落本(『仕懸文庫』『錦之浦』『娼妓絹籭』)の作者である山東京伝と版元の蔦屋重三郎、加えて発売可と判断した地本問屋の行司仲間(当番)2名が幕府によって処罰された。

耕書堂を経営する蔦重からすれば、幕府の出版統制によって朋成堂喜三二・恋川春町という武家出身の戯作者ツートップを失ったこともあり、町人出身の人気戯作者である山東京伝の洒落本では、あえて発禁処分ぎりぎりのところを狙ったのである。それは高収益が見込めたからで、危ない橋を渡る価値があった。

蔦重の「育成者(トレーナー)」としての顔

蔦重は、ほぼ確信犯であったがゆえに幕府に処罰されても意欲は衰えなかった。

幕府に洒落本の執筆を禁じられ、意気消沈していた山東京伝を激励し、代わりに(おとなしめの)黄表紙の執筆をすすめて書かせつつ、刊行物の中心を戯作や狂歌絵本から浮世絵へと移した。そして、書物問屋仲間に加盟して専門書・学術書の出版も手掛けるなど、商魂たくましく新事業を手掛けていった。とくに旧知の喜多川歌麿には美人の大首絵(上半身のみの絵)をすすめた。

それまでは、永寿堂の西村屋与八が売り出した、浮世絵師の鳥居清長による全身を描いた美人画が評判であったが、蔦重は歌麿の大首絵(美人画)を刊行することで与八が創った美人画ブームを継承し、歌麿の『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)』「寛政(江戸)三美人」などを売り出すことで浮世絵界を牽引した。

ただし、売れっ子となった歌麿は、他の版元からも出版の誘いが多くなり、蔦重のもとを離れることになった。

また、蔦重は育成者(トレーナー)としての顔も持つ。

寛政4(1792)年、山東京伝の家に居候していた武家出身の戯作者・曲亭馬琴を、蔦屋の手代として雇用し次世代の戯作者として育成。馬琴はのちに耕書堂から読本・黄表紙・合巻などを出版し、自立して生計を立てた。

また、蔦重は葛飾北斎に京伝や馬琴作の黄表紙の挿絵を描かせるなど、次世代の浮世絵師として育成した。

蔦重の死後、北斎は耕書堂の看板絵師となる。「耕書堂」の店舗を描いた有名な絵は『画本東都遊(えほんあずまあそび)』に収録されたもので、『富嶽三十六景』は後世に世界的な知名度を誇るようになった。

幻の浮世絵師・東洲斎写楽をデビューさせる

寛政6(1794)年、蔦重は、幻の浮世絵師・東洲斎写楽をデビューさせた。


写楽はわずか10カ月の間に「三代目大谷鬼次の江戸兵衛)」「市川鰕蔵の竹村定之進」などの役者絵や相撲絵など145点ほどを残し、忽然とその姿を消している。

写楽の作品は現代でこそ「役者の内面にまで迫っている」などと絶賛されることもあるが、当時は話題にはなってもそれほど人気はなかった。

あくまでも役者絵はファンが買う「ブロマイド」なので、美しくなければ意味がない。誇張しすぎたり、リアルすぎたりすれば客が引く。

写楽の正体は謎だが、山東京伝説や葛飾北斎説、途中で作風が変化することから複数人説、果ては蔦重説まである。

近年の研究では、阿波国徳島藩主・蜂須賀氏お抱えの能役者「斎藤十郎兵衛」説が有力である。

(伊藤 賀一 : 「スタディサプリ」社会科講師)