キリストがサルに?

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 過去に世間を騒がせたニュースの主役たち。人々の記憶が薄れかけた頃に、改めて彼らに光を当てる企画といえば「あの人は今」だ。今回は、2012年に世界を騒然とさせた、「世界最悪」と呼ばれた壁画修復と、その後の意外な顛末について取り上げる。

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【写真を見る】現在93歳のセシリア 観光局長にも就任していた

 エッケ・ホモ(この人を、見よ)――。

「イエスを磔刑に!」と騒ぐ群衆に対して、ユダヤ総督のピラトが疑問を投げかけたとされる言葉である。このシーンは、キリストの受難を象徴するものとして、さまざまな芸術作品のモチーフとなってきた。

 ピラトの発言からおよそ1980年の時がたった2012年の8月。スペイン北東部のボルハという町で受難の時を迎えたのは、まさに〈この人を、見よ〉と題された一点のフレスコ画であった。

キリストがサルに?

 いばらで編んだ冠を頭に載せられ、群衆の前に立たされたイエスの姿を描いたこの作品は、教会内の漆喰の壁に直に描かれていたために、目に見えて“傷み”が生じていた。だが、この作品にとって最大の不幸は、経年による劣化が放置されていたことではなく、絵画修復の知識も技術もないセシリア・ヒメネスという当時82歳のお婆さんが修復を買って出たという事実だった。

 彼女の手によって〈この人を、見よ〉は、元の作品とは似ても似つかぬ滑稽なキリスト像に“修復”されてしまったのである。

「毛むくじゃらのサル」

 スペインの片田舎にある小さな町で起こったこの騒動は、すぐさま地元の研究機関のブログで取り上げられた。その後、地元有力紙、スペインの全国紙へとニュースは伝播していき、フランスの「ル・モンド」紙やドイツの「デア・シュピーゲル」誌、さらには大西洋を越えて「ニューヨーク・タイムズ」紙までもが報じるに至ったのだ。

 極め付きは「BBC」(英国放送協会)特派員が放ったこの一言であった。

「まるでダボついた衣をまとった毛むくじゃらのサルだ」

 この特派員の表現には、世界中のSNSユーザーが反応。教会の壁に描かれた〈エッケ・ホモ〉は、スペイン語でサルを意味する「モノ」と掛け合わせて〈エッケ・モノ(このサルを、見よ)〉と名付けられ、嘲笑の的となったのである。

壁画の作者の子孫が提訴するとの情報も流れたが……

 当初、教会の神父や町の有力者は「教会の絵画が故意に破壊された」と大騒ぎ。壁画の作者の子孫がセシリアを提訴するとの情報が流れたこともあった。

 ところが、騒動から12年がたったボルハの町を訪ねてみれば、想像とは全く異なる景色が見えてくる。どうしたことか、セシリアが手を加えた〈エッケ・ホモ〉は再修復がなされることなく保存され、彼女自身、この上ない厚遇を受けているというのである。

開き直るセシリア

 この12年の間に、ボルハの町では何が起こっていたのか。ヨーロッパ事情に詳しいジャーナリストの坂井明氏が解説する。

「修復を行ったセシリア氏はボルハに生まれ、問題の壁画がある教会に通う敬虔(けいけん)なカトリック教徒でした。彼女は、体に障害がある息子の介護に多くの時間を費やし、教会のミサに参加すること以外、人生の楽しみは“絵を描くこと”くらいだったといいます」

 現地の報道によれば、素人画家であったセシリアが“修復”を行った言い分は、こうだ。

〈教会内部のうだるような暑さとひどい湿気で、既に始まっていた壁画の傷みが一気に進むんじゃないかと心配したんです。このまま放置して夏休みに出かけたら、帰った時には絵が取り返しのつかない状態になっているのではないか。それで「私が今、やらなくては」と作業にとりかかったのです〉

 もちろん、セシリアとて、壁画の修復の出来に満足していたわけではない。

〈私の唯一の過ちは作業の途中、油絵具の乾く時間を利用して2週間のバカンスに出かけてしまったこと。町に帰ってきたら大騒動になっていて、私は教会内の壁画に近づくことさえ禁止されてしまったのです。修復作業はまだ途中で、あのまま続けさせてもらっていたら何の問題も起こらなかったはずですよ〉

ボルハの街に観光客が溢れるフィーバーに

 間違いなく言えるのは、セシリアが“悪意の修復人”ではなかったということ。だが、いくらキリスト教が「博愛」の精神を説くからといって、ここまで見事に開き直った「素人修復人」を、そう簡単に許せるものではあるまい。

 実は、セシリアが地元で厚遇を受けるに至った背景には、きわめて俗物的な「損得勘定」が働いていたのである。

 坂井氏が続ける。

「この珍騒動が話題になったことで『修復された壁画を実際に見てやろう』という野次馬がスペイン国内ばかりか世界中からボルハに集まったのです。結果、人口5000人ほどの田舎町には、騒動直後のわずか4カ月の間に4万6000人もの観光客が訪れたといいます」

 それまで「観光客」とは無縁だったボルハの住民たちが、この商機を見逃すハズもない。

「ボルハにあるレストランや喫茶店、居酒屋は、連日の大繁盛。騒動後に店舗数を増やして事業を拡大した飲食店店主もいるそうです。壁画目当ての観光客が殺到した教会は入場料を徴収し、地元慈善団体に5万ユーロを寄付。また、修復された〈この人を、見よ〉のロゴ入りボールペンやマグカップ、ぬいぐるみにワインまで発売して、教会の懐は大いに潤った。さらに、ボルハの町は壁画の模様をあしらった宝くじまで発売する始末で、空前の観光フィーバーとなったのです」

セシリアは観光局長に

 当初は「取り返しのつかない過ちを犯した」と白眼視されていたセシリアだったが、世間とはしょせん、現金なもの。彼女への視線は、この観光フィーバーによって様変わりした。

「セシリア氏は騒動後ほどなくして、ボルハの観光局長の肩書を与えられ、テレビ番組の特別ゲストに招かれるなど、下にも置かぬ扱いを受けることになりました。13年8月には、セシリア氏と教会との間で、関連グッズの売り上げに対して発生する著作権使用料のうち51%を教会が、残り49%をセシリア氏が受け取るとの合意も成立。セシリア氏はすっかり『町の救世主』となったのです」

「壁画をそのまま守れ」という署名も

 修復された〈この人を、見よ〉の経済効果はその後も続いているといい、ボルハの町にはこれまでで100以上の国や地域から、30万人を優に超える観光客が訪れている。

「2年前の9月にはボルハ町長の発案で『修復から10周年』を記念した式典が2日間にわたって行われました。91歳となっていたセシリア氏もこの式典に主賓として招かれ、車椅子で参加したといいます」

 町民たちの“手の平返し”にはあきれるばかりだが、笑えるのは10周年を機に行われた専門家による絵画の調査。12年の騒動時には「復元は不可能」とされていたものが、今度は一転、「復元は可能」と真逆の結論が出たのである。

 ところが、

「そもそも元の〈この人を、見よ〉は、1930年ごろに地元近くの芸術大学教授が描いたもので、取り立てて秀作というわけでもなく、騒動の前にはその存在に目を止める人はおりませんでした。そんな壁画に復元されてしまえば、当然、観光客の足はボルハから遠のいてしまう。そこで『セシリア婆さんの修復壁画をそのまま守れ』という住民の請願運動が行われ、1万筆以上の署名が集まったそうです」

 現在93歳となったセシリアは少し認知症の症状が見られるものの健在。息子とともに町立の高齢者施設で、騒動以前と変わらぬ慎ましい生活を送っているという。

「週刊新潮」2024年8月15・22日号 掲載