五輪に「見てくれる人に感動を」は無くていい 聖人化するアスリート、過度に清く正しくが求められる理由――陸上・為末大
「シン・オリンピックのミカタ」#95 連載「なぜ、人はスポーツをするのか」第5回・後編
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
今回は連載「なぜ、人はスポーツをするのか」。現役アスリートやOB・OG、指導者、学者などが登場し、なぜスポーツは社会に必要なのか、スポーツは人をどう幸せにするのか、根源的価値を問う。第5回は陸上400メートル障害でシドニー、アテネ、北京の五輪3大会に出場した為末大さん。引退後は「スポーツで社会を良くする」を目指し、さまざまなステージで活躍。そんな為末さんとスポーツの意義について考える。(前後編の後編、取材・構成=THE ANSWER編集部・神原 英彰)
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パリ五輪が行われる「2024年のスポーツ」の現在地を考えてみます。
1990年から2024年までの大きな流れで見ると、オリンピックは別ですが、スポーツは「短時間化、少人数化」が起きていると感じます。バスケットボールに3人制ができたり、サッカーにフットサルができたり。過去は大規模に動員ができることを前提にしていましたが、小さいものが好まれるようになりました。
それは非スタジアム化が進み、スタジアム外で行うスポーツが増えているから。スタジアムの外に出ると自然環境により、同じ条件が作りにくい。サーフィンなら、例えば、1人前の波と今の波どちらが大きいのか。それをコントロールできないと不公平と思われますが、「それも勝負のうち」という考え方が今のスポーツの潮流です。
もう一つ、科学が進むと、何歳の時点でどんな経験をしたら、どの程度のパフォーマンスができるのかという計算式が出始める。もちろん、まだ分からないことも多いですが、そういうものがあると、スポーツがつまらなくなる可能性がある。生まれや幼少期の環境だけで決まるんでしょ、と。田舎町から現れた選手が大舞台で活躍できるストーリーが面白かったのですが、そういうものがなくなっていくかもしれない。
また、アスリートが聖人かのように、過度に清く正しくいなければいけない風潮も感じます。これはスポーツ界がブランディングしたところもある気がしますが。「スポーツをすると良い人になれる」という風潮を作ってしまったことで、揺り戻しが来ている気がします。その人自身の内側にある活力を引き出すことがスポーツの意味合いであると思います。
最近、アスリートの皆さんは「見てくれる人に感動を」という話をよくされますが、まずはどうかご自身の一生懸命やってきたことを、存分に花開かせてください。社会の側があなたのメッセージを勝手に読み取りますから、というのが正直な想いです。
なぜなら、社会の要請に応じて、スポーツは出来上がっているから。世の中にいろんな大事なものがある中で、どう強化してトップ選手を作っていくか、そのプロセスに教育的効果があるなどと合意がなされていて作られたので。そのプロセスを正当に歩んできた選手であれば、「どうぞご自由に」と思うのです。
なので、もし本当に発信したいならいいと思うのですが、義務的に社会的意義を発信しなくてもいいのではないか。環境問題とか国と国の関係とか、正しいことを言える発信力があるのですが、一方で、もっと自分を解放して、命を燃やしている姿が社会にとってみると、すごく重要なのではないかとも思います。
アスリートが説得力を持つ理由に「スポーツの分かりやすさ」
なぜ、アスリートが説得力を持つか。それはスポーツの分かりやすさにあります。
背景には真摯に、一生懸命に競技をやって、命が燃え、そういう瞬間が目に焼き付いているから、響くものがあるのではないか。それが大事な価値である気がします。そして、我々が人間であることを忘れてはいけない。この長い人類史において、ずっと動物として過ごし、最後の一瞬で我々はヒトに進化した。だから、根源的にインパクトを与えられるのは身体活動である。目の前で人が身体活動しているのは想起しやすい。動物的にその人の苦しみ、喜び、悩みを感じ取りやすいのです。
また、スポーツは何かを代表することも多い。日本の代表、地域の代表、学校の代表……。それがアスリートの息苦しさに繋がる側面もありますが、何かを代表することが多く、第三者が投影する象徴になっている点にも価値があります。
さて、パリ五輪は連日、熱戦が繰り広げられました。五輪こそ、時代に合わせて変化してきました。要請に合わせないと生き残れない側面もあったので。
1984年のロサンゼルス五輪から今までの五輪が持っていた大きなテーマは「世界が一つになる」。産業も含めて、経済安全保障の考え方があります。経済的なやり取りが頻繁になるほど、相手国を攻めることのデメリットが大きくなる。結果、平和になる。これを五輪が後押しした気がします。
各国、いろんな事情があるかもしれないけど、相互に競争しながらいろんな国が五輪に行き、グローバリゼーションを世界中に広げる後押しと、そのグローバリゼーションにより利益を受けるスポンサー企業の合わせ技。それをネガティブに見る面もありますが、そのおかげで世界中のいろんな国の選手たちが頑張る機会があり、最後に必ず閉会式でみんなが一つになる瞬間があり、4年に一度の良いものを観たなという一体化が生まれます。
もちろん、多くの課題があるのは事実ですが、戦争が起きると五輪はできなくなる。実際、第二次世界大戦中はできませんでした。地球環境や人権問題など、いろんな課題があっても、五輪を開催できる環境に地球を保っていく意義は大きい。
五輪を開催するためには、世界中から選手を派遣してもらわないといけない。そのためには各国のNF(国内競技連盟)が必要で、NFを維持するには国内もある程度の秩序が必要である。そんなことを含めると、世界が平和な環境でいられることも、五輪が最低限の担保をしているという考え方もできるのではないでしょうか。
五輪は、ともすると教育的になりすぎるコンテンツだと思います。学校の先生が朝礼で話しやすい。「ああやって一生懸命、頑張ったから良いことが起こる」とか。でもそういうことじゃなく、人間が一生懸命やってきたら「まさか」も含めて、こんなことが起きるんだと面白がってもらうと、より楽しめると思います。
(続く)
■為末 大 / Dai Tamesue
元陸上選手、Deportare Partners代表。1978年、広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2024年8月現在)。現在はスポーツ事業を行うほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。その他、主な著作は『Winning Alone』『諦める力』など。
(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)