紫式部が執筆した『源氏物語』ともゆかりがある、比叡山延暦寺(写真: ふくいのりすけ / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第26回は結婚した紫式部と藤原宣孝の夫婦関係が垣間見えるエピソードを紹介します。

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モテモテだった藤原宣孝

何事も器用にこなして、気がつけば、ちゃっかりとよい思いをしている――。

そういうタイプの人が、あなたの周りにもいることだろう。つい、うらやましくなってしまうが、紫式部の夫、藤原宣孝はそんな人物だったようだ。

とにかく女性にはモテたらしい。藤原顕猷(あきみち)の娘、讃岐守平季明の娘、中納言藤原朝成の娘など多くの妻を持った。子宝にもめぐまれて、顕猷(あきみち)の娘との間に、隆光が生まれたほか、季明の娘との間には頼宣、朝成の娘との間には隆佐、明懐、儀明と、多くの子を残している。

そのうえ、さらに紫式部まで口説き落としてしまうのだから、随分とやり手なプレイボーイだ。コミュニケーション力の高さは、仕事面でも発揮されたのだろう。

順調に出世を果たして、備後守、周防守、山城守、筑前守などの国司に就いている。そんな世渡り上手なところもまた、多くの女性を惹きつけたのかもしれない。

【2024年7月9日10時30分時追記】初出時、一部表記について誤りがありましたので、上記のように修正しました。

「限りある人生で自分は何を重視して、何に時間を費やすのか」は人それぞれである。宣孝の場合は、女性のために時間を費やし、相手の心をつかむべく努力していた。式部に対しても盛んに和歌を贈って、なんとか20歳年下の女性に近づこうとしている。

宣孝は式部に対して、春の雪解けをみては「君の心も私に打ち解けるべきだよ」とメッセージを送り、しまいには、手紙の上に、わざわざ朱を振りかけて「涙の色を見てください」とまで書いている。その情熱には、恐れ入るばかりである。

紫式部とは正反対のムードメーカーだった

口説かれた側の式部はどう思ったのか。

「くれなゐの 涙ぞいとど うとまるる」(紅の涙などというと、ますます疎ましく思う)と、必死な中年男に当初はドン引き。「うつる心の 色に見ゆれば」(変わりやすい心が、この色ではっきりと見えているので)と拒絶している。

思い人から冷たくされれば、普通はそこで諦めてしまってもおかしくはないが、モテる人は「自分の存在を印象づけられた」とむしろ、手ごたえを感じるものらしい。

そこからも和歌で交流を深めていった宣孝。式部が越前を離れて京に帰ってくれば会いに行き、結婚を十分に意識させてから「隔てのない仲になりたい」と訴えている。

宣孝はそうして式部にアプローチをしながら、近江守の娘にも接近していた。その所業は式部の耳にも入っており、「いっそ、あちこちの女に声をかけてはいかが?」と和歌で皮肉を放つこともあった。

だが、「ほかの女性にも声をかけている」と知ってもなお、式部にとっては宣孝が、いつしか特別な存在になっていたらしい。結局は、求愛を受け入れて、2人は結婚に至っている。

いったい、式部は宣孝のどんなところに惹かれたのだろうか。

宣孝は、御嶽詣においても、空気を読まずに一人だけ派手な格好で出かけていき、「まさか御嶽様が『粗末な服装で詣でよ』とは言わないだろう」と言って、周囲を呆れさせるような男だ。

手紙で「血の涙」を演出したように、相手の意表を突くような言動が多い。踊りも得意だったから、場を明るくするようなムードメーカーだったのだろう。

どちらかというと、引っ込み思案な式部とは、だいぶ違うタイプである。それだけに、一緒にいれば「自分もまだ知らない自分に出会えるかも」と考えたのかもしれない。

だが、恋愛はそれでよくても、結婚となると、価値観のギャップが、深刻なすれ違いを生みやすくなる。

式部を待ち受けていた宣孝との結婚生活は、あまり幸せなものではなかったようだ。

子どもをもうけるも悲しい結婚生活

2人が結婚した時期は、長徳4(998)年の冬頃とされている。その翌年の長徳5(999)年には一女として、藤原賢子が生まれるなど、幸せの絶頂にいたかにもみえるが、宣孝の足は早くも遠のいていってしまったらしい。


石山寺にある紫式部の像(写真: りらっくま / PIXTA)

このまま放置するのはまずいと、フォローしようとしたのだろうか。7月には、式部のもとに宣孝から、こんな歌が届けられている。

「うちしのび 嘆きあかせば しののめの ほがらかにだに 夢を見ぬかな」

(あなたを想い、ため息をついているうちに夜を明かしたので、夜明けになつかしいあなたを夢に見ることもできなかった)

これだけ読むと、宣孝には式部への思いがまだありそうだが、式部からすれば、もう何度も肩透かしを食らったのか、顔を出せていないことへの言い訳としか思えなかったようだ。こんな返歌を行っている。

「しののめの 空霧りわたり いつしかと 秋のけしきに 世はなりにけり」

そのまま詠むと「夜明けの空には一面に霧がたちこめて、早くも秋の景色となりました」といった意味になるが、「秋の情景」に、「飽きの気色」を懸けており、「私も飽きられてしまったようですね」と切ない感情が込められている。

あれだけ口説き落とすのに熱心だったのに、結婚して間もなく、宣孝の足が遠のいたようだ。

そもそも、宣孝には、すでに数多くの妻子がありながら、なぜ式部を新たに妻にしようと思ったのか。

新婚早々に繰り広げられた夫婦喧嘩に、そのヒントがありそうだ。宣孝が新たな妻の教養を自慢しようと、あちこちで式部の手紙を見せてまわったのだという。これに、式部が激怒。感情を和歌にぶつけながら、一通りやりあったのち、宣孝が謝罪。ケンカ自体は終了したようだ。

だが、このケンカの背景から、宣孝にとって新たな妻・式部の自慢ポイントは「手紙」、つまり、教養の深さだったことが感じ取れる。

確かに、式部は幼少期に父の為時から「男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ(この子が男子でないとは、なんと私は不運なんだろう)」と残念がられたほどの才女だ。その点においては、ほかの女性ではなかなかいないタイプであり、だからこそ宣孝は手に入れたかったのではないだろうか。だとすれば、式部の「もう飽きたのですね」という勘は鋭いように思う。

また、式部は結婚してすぐの頃、夫となったばかりの宣孝に、こんな歌も贈っている。

「折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひぐまなき 桜惜しまじ」

意味としては「桃の木を折って、その花を近くで見ると、離れて見るよりも美しい」となり、さらに「あなたを思いやらない桜など惜しくはないのです」と続けている。自分を「桃の花」に、宣孝のほかの妻を「桜の花」にたとえながら、こう伝えているのだ。

「私と結婚したあなたは、『思っていたよりもずっといい女だ』と気づくでしょう。あなたを思いやらなかった方なんて惜しくはありませんよ」

なかなか自分に振り向いてくれなかった式部が、今や「あなたに、いい女だと思わせてみせる!」と意気込んでいる。

本来ならばうれしいはずだが、いくら熱心に口説いても、クールにさばく。彼女の知的さに夢中になったのだとすれば、そんな変化が宣孝にとっては、つまらなく感じられたのかもしれない。

誰かのことを忘れるのは世の常だが……

いったん、心が離れてしまった相手を振り向かせることほど、難しいことはない。

式部は「忘るるは うき世のつねと 思ふにも 身をやるかたの なきぞわびぬる」という和歌も残している。詞書には「久しくおとつれぬ人を思ひ出でたるをり」とあるから、宣孝に向けてのものだろう。意味としては、次のようなものになる。

「人のことを忘れてしまうということ。それは、憂き世の常のことだと思うけれども、忘れ去られたほうは身のやり場がなく、どうすればよいのかわからず、切ない思いで泣いてしまうのが、侘しいことだ」

「他人もまた同じ悲しみに悩んでいると思えば、心の傷はいやされなくても、気は楽になる」といったのは、劇作家のシェイクスピアだ。

時代を超えた普遍的な感情

会いたい人に会えない。そんな誰もが一度は抱えるであろう苦しみに、式部のこの和歌は優しく寄り添ってくれている。そこに込められた思いは、時代を超えた、普遍的な感情だといえよう。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)