新千円札の肖像になった、「日本近代医学の父」北里柴三郎の功績について解説する(写真:cassis/PIXTA)

「日本近代医学の父」と称され、細菌学者として世界に名を知られた北里柴三郎。今回、新千円札の肖像になったその功績について、彼の生涯を描いた『ドンネルの男』の著者で、医薬の歴史をテーマとする著作を数多く執筆している作家の山崎光夫氏が解説する。

「ドンネルの男」の異名

北里柴三郎はこのたび発行の新千円札の肖像に採用された。


北里柴三郎(1853〜1931)は日本近代医学の父である。世界に先がけて破傷風菌の純粋培養に成功し、その抗毒素も発見、血清療法の基礎を築いた。さらに、ペスト菌も発見、世界に知られた細菌学者である。

北里は東京大学医学部の学生時代に著した演説会用原稿『医道論』の中で、「医者の道とは病気を未然に防ぐ事」と主張し、「予防衛生・国利民福」を生涯の目標として細菌学の研究に邁進した。この初心を北里は生涯をかけて貫いた。「終始一貫(しゅうしいっかん)」は北里の座右銘である。まさに、終始一貫して、国の衛生事業に生涯を捧げたのである。

指導者となった北里が門人に放つドンネル(ドイツ語で雷の意味)は有名だった。失敗や怠慢などに容赦のない雷が落ち、その大声での怒鳴り声は研究所内に響き渡った。そこには、悪気や私心はなく、一喝の後は、晴天が待っていた。腹蔵なく雷を落とすことでストレスを発散させていた可能性があり、北里の健康術の基本はここにあったのかもしれない。

北里は嘉永5年12月20日、熊本県小国町に生まれた。阿蘇山や久住山(くじゅうさん)、涌蓋山(わいたさん)など山々に囲まれた山峡の小さな村だった。総庄屋の父、惟信(これのぶ)、母、貞(てい)の長男(4男5女)として誕生した。

勉学の場として選んだ熊本医学校でオランダの医師、マンスフェルトに師事するうち、医学研究を終生の目標に定めた。

「ぜひ東京で学び、そこで満足することなく西洋に雄飛せよ」というマンスフェルトの激励の言葉に発奮して上京。牛乳配達をして学費と生活費を稼ぎ出しながら、明治16(1883)年に東京大学医学部を卒業した。

そして、細菌学の研究と実践応用が可能な内務省衛生局に就職した。ここで細菌の調査研究をするうち、その突出した研究成果が認められドイツ留学の命を受けた。

官命に反抗しコッホの下で研究

留学先は結核菌を発見して世界的な名声を博していたコッホの研究室だった。以後、コッホから指導を受けつつ、細菌学の研究に明け暮れた。その態度は下宿と研究室までの道のりしか知らなかったといわれるほど研究に没頭する。

明治21(1888)年、石黒忠悳(いしぐろただのり)軍医監がベルリンを訪れた際、「君は3年の留学期間のうち2年目に入っている。ついては、ミュンヘン大学のペッテンコーヘル教授の下で衛生学を学んでいる中濱東一郎(なかはまとういちろう)と交代し、君はミュンヘン大学で学べ」と命じた。この官命は国家命令であり絶対であり北里の危機だった。

この官命に対し北里は、「細菌学の修得には時間が必要です。この時期に交代しては、中途半端に終わり、結局、中浜も困ると思います」と交代に真っ向から反対した。“肥後もっこす”の魂に火がつき、ドンネルを落とした瞬間だったといえよう。

北里の反抗に石黒は激怒した。だが、結果的には、北里はコッホの研究所に残り、研究を継続できた。奇跡が起こったとしか考えられないが、これには石黒に課せられた国からの命題があり、それを遂行するにはコッホの指導を受ける必要があった。

北里とコッホの師弟関係は強固であり、北里をミュンヘン大学に移動させればコッホの怒りは目に見えている。コッホの心証を害しては、石黒自身に課せられた命題は果たせなくなる。かくして石黒は官命を撤回した。北里の細菌学に懸ける情熱と志は官命を覆させる迫力があったとしか言いようがない。

北里は明治25(1892)年5月に帰国した。コッホの下、約6年半に及ぶ留学中にあげた画期的な成果に対し、英国やアメリカから、「うちの研究室に来てください」「あなたの研究所を作る」「望みの報酬を提供する」といった破格の誘いが多数寄せられた。しかし、北里は国費で留学させてもらった恩に報いる気持ちが強く、全て断って帰国した。

ところが、北里に働く場所がなかった。これは北里が留学中に起こした脚気の原因にまつわる東大医学部派との論争に起因していた。東大派は脚気の原因に、脚気菌の存在を主張したのに対し、北里は、自分で行った実験結果から、脚気菌説を真っ向から否定した。

脚気菌説を唱える学者は、その昔、北里が指導を受けた細菌学者だったので、北里は恩師への礼儀を知らない、と糾弾された。一方、北里は学問に私情ははさむべきではないと科学性を前面に押し出し、これに反論した。

後年、北里の主張は、ビタミンB1の欠乏が原因と判明したことにより、結果的に、北里の正当性が確認された。

不遇な境遇を救った福沢諭吉の支援

こうした派閥的なしがらみもあり、世界的な実績をあげて帰国しながら、北里は仕事もなく空虚な日々を送っていた。

この北里の不遇と窮地を救ったのは、福澤諭吉だった。福沢は、優れた学者を遊ばせておくのは、国家の恥である、として、援助を申し出た。そして、芝公園内の借地を提供し、建坪10坪余の家屋を建てた。さらに、森村市左衛門も資金援助を買って出た。この福澤との縁で、後年、北里は慶応大学医学部を創設している。

明治25(1892)年10月、小規模ながら伝染病研究所が建てられ、日本の細菌学の研究が緒についたのである。しかし、すぐに手狭となり、明治27(1894)年、愛宕町に移転した。この年、北里はペスト菌を発見し、門弟たちの研究も充実し、実績もあがった。その象徴的な事例の1つが志賀潔による赤痢菌の発見だった。

その後、伝染病の研究はますます重要性を増し、北里の伝染病研究所は、明治32(1899)年に内務省所管の国立伝染病研究所となった。

国家機関に組み込まれた事業内容は、1、研究。2、診療。3、講習。4、予防と治療材料の製造の4分野だった。さらに研究の規模や事業内容も拡大し、研究所は、明治39(1906)年、芝区白金台町の1万9000坪余の広大な敷地に移転した。北里所長の下、研究所は順調に運営された。

大正3(1914)年10月、時の政府、大隈内閣は突然、伝染病研究所を内務省から文部省の管轄下に移し、東京帝国大学の付属機関とする旨、発表した。これが、世に言う、“伝研移管事件”だった。

北里への事前の相談もなしにいきなり移管を決めたことで、世間は東大派の陰謀を嗅ぎとり、北里に同情した。学問世界の騒動が社会面を賑わせた最初の事件となった。北里が61歳のときである。

破傷風免疫体の発見でノーベル賞候補に

北里は伝研を辞め、急遽、自前の研究所の設立を決めた。すると、この苦境に旧研究所の学者や職員たちが一人も辞めずに北里の下に付き従った。

北里の部下や同僚に接する態度には、北里特有の信念があった。それは、「任人勿疑、疑勿任人(人に任(にん)じて疑う勿(なか)れ、疑いて人を任じる勿れ」である。その意味は、一旦(いったん)人に任じたら(まかせたら)信じて疑わない。また、疑って人に任じない、という信条である。

この信念と人徳が伝研移管事件の際に研究所の職員たちがとった態度に如実に示された。誰一人辞めなかったのである。「北里研究所」は今日もなお存続し、北里精神の下、医学の研究、発展に貢献している。

ところで、北里は第1回ノーベル賞の候補にあがっている。北里が発見した破傷風菌免疫体(抗毒素=抗体)は免疫血清療法の夜明けを告げる革命的業績だった。だが、同僚のベーリングが受賞し、北里は受賞には至らなかった。北里の業績を評価すれば、今日なら問題なく受賞しただろうが、ノーベルの死後、さして年月が経っておらず、賞自体の体制も整っていなかった。また、当時の日本はまだ極東の小国で、さらに有色人種に対する差別意識が色濃く残っている時代でもあり、不受賞という不平等な結論に至ったものと考えられる。

さて、伊東温泉といえば、誰もが知っている伊豆半島の人気温泉地であるが、北里柴三郎はこの温泉の開発、普及に大いに関与している。

日本版クアハウスの元祖「北里の千人風呂」

北里が伊東に別荘を構えたのは、大正2年である。門弟の一人が病弱で、空気のきれいな場所として伊東を選び、移住して開業したのが縁だった。当時、伊豆急行線などはなく、東京から伊東に行くには、東海道線、三島駅で豆相線に乗り換えて、大仁に行き、そこから馬車に乗って峠を越える。優に9時間を超える行程で、現在と隔世の感がある。

そこへ訪ねているうちに北里も気に入ってしまい、約3000坪の敷地に純日本式の建物を建てた。さらに長さ20メートル、横10メートル、深さ2メートルの大プールを建設した。日本初の温泉プールである。これを地元民に開放したところ、「北里の千人風呂」と呼ばれ喜ばれた。健康の一環として温泉を積極的に利用したので、日本版クアハウスともいえる。

伊東は小さな港町で人家もまばらな寒村でしかなかったが、北里が別荘を建てたことで、政治家や実業家、学者などが訪れ、その中には別荘を建てる者もあらわれ、伊東は次第に賑わいをみせたのだった。さらに、鉄道敷設も積極的に運動し、北里はいわば、”伊東温泉の祖”と呼んでも過言ではないようだ。日本近代医学の父にはこんな一面もあったのである。

昭和6(1931)年、脳溢血により死去。享年、78。波瀾に富んだ医人の人生だった。墓は東京・青山墓地にある。

(山崎 光夫 : 作家)