閉店の発表で、多くの人を驚かせた早稲田の「メルシー」。しかし、店主に話を聞くと、報道とは違った真相が判明した(筆者撮影/以下、写真は過去に撮影したものを含みます)

6月29日、東京・早稲田にある老舗の町中華「メルシー」が突然閉店を発表し、多くのファンを賑わせた。

メルシーが突如「閉店」のお知らせ

当日来店した常連客には一通の手紙が手渡され、その手紙がSNSを通じて一気に広まった。

ご挨拶する間もなく申し訳ございません。
人手不足、後継者不足により継続が困難な状況になり、突然ですが本日をもちまして一旦店を閉めさせて頂く事になりました。
打開策を探すつもりではありますが、何分体力に不安を感じる年齢であるのも事実でございます。
何とかここまでやって来られましたのも、お客様に支えていただいたお陰であり、本当に心より感謝申しております。

皆様の健康とご多幸をお祈り申し上げます。
長い間ありがとうございました「メルシー」

スタッフ一同

これは常連に向けて店主・小林一浩さんの奥様が書かれたものだという。

【画像】突如「閉店」を発表した早稲田のメルシー。タモリや吉永小百合も愛した「人気メニュー」と味わいあふれる「店内」の様子を見る(12枚)

店名である「メルシー」という言葉がこんなに悲しく響く手紙があるだろうか。


常連客に渡された手紙(筆者撮影)

早稲田は早稲田大学のほか多数の学校が集まる都内屈指の学生街として知られる。この町には、懐に余裕のない学生に向けた「安い」「旨い」「多い」の三拍子がそろった「ワセメシ」と呼ばれる飲食店が多数存在する。

多くの著名人が愛したメルシー

「メルシー」は「ワセメシ」の老舗の代表格。

かつてはこのエリアにも安くて旨い町中華がたくさんあったが、後継者問題で次々に閉店を余儀なくされ、「メルシー」の孤軍奮闘状態が続いていた。


7月1日現在、シャッターは降りている(筆者撮影)

「メルシー」は1958年に創業。

現在は二代目の小林一浩さんが営んでいて、お店は一度移転しているものの、60年以上にわたり、早稲田の町に愛されてきた、早稲田生のソウルフード。週末にはOBやOGも数多く集まり、タモリや吉永小百合が通う店としても有名である。

煮干しと醤油ダレがビシッときいたラーメンが看板メニューだが、先代が喫茶店をやっていた名残で、ドライカレーやオムライスなどの喫茶メニューがあるのも特徴である。


煮干しと醤油ダレがビシッときいたラーメン(筆者撮影)


こちらはオムライス(筆者撮影)

実は筆者が企画監修をして、5月にローソン限定のカップ麺「早稲田メルシー もや大」を発売したばかりで、店主の小林さんともしょっちゅう連絡をとっている中での突然の発表。あまりに突然の発表で筆者もパニックになってしまったが、「一旦閉店」という表現も気になったので、しっかり状況を確認したいと思い、小林さんに話を聞いてきた。


店頭に貼り出されたお知らせには「一旦閉店」の文字が…(筆者撮影)

「パートの方が2人いたんですが、2人とも体調を崩され、7月から店に出られる人がいなくなってしまったんです。私と週3でお店に出ている妻の2人だけになってしまい、これでは店は続けられないなと。それが木曜日にわかって、すぐに話して土曜日で閉店しようということに決めました」(小林さん)

「メルシー」は今まで人手にはあまり困ったことはなかった。長く勤めてくれる人が多く、このケースは初めてだったという。

「『休業』という形も考えましたが、またいつから再開できるかはわからないから『一旦閉店』という形が良いのではないかと妻と話して決めました。ひとまずゆっくりして、人を探してからいずれ復活できればと思っています。

最近は夫婦ともに体調を崩しがちで、いい機会だから少し休もうかと。少し疲れていたんです」(小林さん)


調理中の小林さん(筆者撮影)

調理は店主ひとり、意識が朦朧とすることも…

調理は小林さんがほとんど一人でやってきていて、大きな釜の前でずっとラーメンを作っていると意識が朦朧としてくることもあったそうだ。最近は火傷も増えてきて、疲れを感じていたという。

小林さんが先代とともに厨房に立っていたのが約20年間。その後、代替わりしてからも約20年が経った。40年間、週休1日で厨房に立ち続けてきたのだから疲れが溜まるのも当然だ。


営業時の外観(筆者撮影)

小林さんに「メルシー」の歴史を振り返ってもらった。

「『メルシー』はもともと喫茶店でした。その後、父が進駐軍に勤めていた時に学んできたハンバーガーを出してみたものの全く売れず、別のメニューを模索し始めたんです。

親戚に中華をやっている人がいて、そこで学び、ラーメンを出すようになりました。1970年に今の場所に移転しましたが、その前はカツ丼やかき氷までありました」(小林さん)


壁のメニュー表(筆者撮影)

移転後はメニューを絞ったが、喫茶メニューのいくつかは残して現在の形になった。一時期はコーヒーも出していた頃もあったという。

筆者は1993年に早稲田実業(当時は早稲田鶴巻町、現在は国分寺市)に入学し、当時から「メルシー」に通っていた。当時ラーメンは350円だった。


チャーハンには錦糸卵がのるのが特徴(筆者撮影)

「早実があった頃は学生さんも多く繁盛していましたが、早実が移転した頃から、早稲田には新しいラーメン屋さんが増えていき、学生の客足が減っていきました。

「できれば復活して1年でも長くやりたい」

その頃からパートさんを1人減らして続けてきました。

弟子入りしたいという人も2、3人来ましたが、当時は人も足りていたこともあり断っていたんです」(小林さん)


(筆者撮影)

そのまま弟子や後継者のいないまま「メルシー」は今日まで営業を続けてきた。周りの町中華が次々と閉店する中、「メルシー」は二代目が継いでまだまだ安泰かと思っていたが、現実はそうではなかった。

「後継者については考えたことはありません。自分の代で終わりかなとはぼんやり考えていました。

年金だけでは生活できないので、できれば復活して1年でも長くやりたい気持ちはあります。営業時間を短くするとか、休業日を増やすなどして何とか続けられないかは考えていきたいです」(小林さん)

「休業と閉店ではこんなに違うものか」

閉店が発表になり、本当に多くのファンやメディアから連絡が来た。

先代が病気で入院した時も、小林さんが体調の悪い時も休業せずにきた「メルシー」の突然の閉店のニュースにファンや常連たちは驚きを隠せない。

取材中にも何本も電話が鳴り、常連客が次々店に訪れ、マスターの体調を心配する。「私の体調は大丈夫ですよ」と笑いながら答える小林さん。


ドライカレー喫茶店時代の名残(筆者撮影)

「休業と閉店ではこんなに違うものかと驚きました。


『そんな話聞いてない』『ずっと通っているから本当にショックだ』という電話が何本も来ました。

よく食べに来てくれる学生は『僕に継がせてください』と言ってきてくれました。

正直ここまで大ごとになるとは思いませんでしたが、改めてお客さんのありがたみを知りました」(小林さん)

いずれ再開に向けて動きたいと言ってくれてファンとしては一安心しつつも、「メルシー」の後継者問題は解決していない。いつか本当の閉店の日が来てしまうと思うと寂しくてならない。

「まだやる気はあります。最低でも5〜6年はやりたいとは思っています。
復活した時にお客さんが戻ってきてくれるか不安ですが、まずはゆっくりしたいと思います」(小林さん)

【画像】突如「閉店」を発表した早稲田のメルシー。タモリや吉永小百合も愛した「人気メニュー」と味わいあふれる「店内」の様子を見る(12枚)


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(井手隊長 : ラーメンライター/ミュージシャン)