1986年に中日の監督に就任した星野仙一氏(左)と牛島和彦氏【写真提供:産経新聞社】

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星野仙一氏にかわいがられた牛島和彦氏…監督就任で気合を入れ直した

 連続完投していても関係なかった。元中日投手の牛島和彦氏(野球評論家)はプロ6年目の1985年、シーズン途中から先発もこなし、プロ初完封勝利もマークした。10先発中、6完投と内容も充実していたが、先発で結果を出していても、リリーフも兼務させられる時代だった。それでも黙々とこなした。そんな牛島氏をさらにやる気にさせたのが、もっとも慕っていた先輩・星野仙一氏の中日監督就任だったのだが……。

 牛島氏はプロ5年目(1984年)に守護神としてリーグ最多の29セーブをマークしたが、38登板、6勝8敗8セーブ、防御率3.48の6年目(1985年)は8月以降に10試合、先発も務めて1完封を含む6完投を記録した。8月1日の阪神戦(甲子園)は7回2失点と好投しながら0-2で敗戦投手となったものの、8月7日の広島戦(ナゴヤ球場)では延長10回0-0の引き分けでプロ初完投。8月13日の大洋戦(ナゴヤ球場)では1-0で被安打2のプロ初完封勝利も成し遂げた。

「8月最初の3試合の先発で1勝1敗1分。26回投げて失点2で得点が1だったのは覚えていますね。0-0の広島戦は大野(豊)さんが相手。次の大洋戦は1-0の1点も押し出しで挙げた1点を守った。0-0では完投しかつかないので、僕が完封したのはそれがプロでは唯一なんですよね」。打線の援護がない中での力投。続く8月20日の巨人戦(後楽園)で敗戦投手になったが、3失点完投で3試合連続完投と力を発揮した。

 しかし、その次の登板はリリーフ。それからまた先発になって9月18日の巨人戦、9月25日の阪神戦(いずれもナゴヤ球場)で2試合連続完投勝利と気を吐いたが、その後リリーフに戻り、また10月の最後は先発と立場は一定しなかった。「先発がいないから先発やれとか、ちょっと(先発陣の)調子が戻ったらリリーフやれ、みたいな感じ。そんな時代でしたね、その当時はチーム状態によって投げないといけませんでしたからね」。

 プロ7年目(1986年)はオールリリーフで16セーブ。この年の中日は山内一弘監督が途中休養して、高木守道監督代行になるなど苦しい時期。チームは5位に終わったが、牛島氏は黙々と与えられた仕事をこなすのみだった。それはプロ1年目の時からずっとそう。肘が痛くても「投げろ」と言われれば、痛み止めを飲み、サポーターを巻いてマウンドに上がり続けた。無理したのがたたって、その痛みとは常に付き合うことになったが、それもプロの宿命と割り切っていた。

 プロ8年目に向けて気合も入れ直していた。1986年10月に中日OBの星野仙一氏が監督に就任したからだ。星野氏は中日が優勝した1982年限りで現役を引退。牛島氏がプロ3年目の時で、現役同士では3年かぶっただけだったが、その間ずっと星野氏の付き人みたいな感じだったという。「星野さんのグラブの手入れをしたり、スパイクを磨いたり、ユニホームをきれいにしたりとかね」。

まさかのトレード通告に「えっ、俺なの。俺なのって思いがありました」

 牛島氏は19歳だったプロ1年目(1980年)の8月に1軍昇格。「あの当時は一番のペーペーがベンチ入りしていても、自分の出番が来るまでは先発投手のうがいの水とか、おしぼりとか、バスタオルとかの担当なんです。星野さんの時もグラブを持ったり、スパイクを持ったりね。試合中に星野さんが裏に行ってアンダーシャツを着替える時には、それも事前にちゃんと出して準備していましたね」。そんなこともあって、自然と星野氏に付くようになっていったそうだ。

「1年目のオフにピッチャーのコンペがあって、1年目はゴルフをさせてもらえないんですけど星野さんに朝5時半に家に来いって言われて行きました。コーヒーとトーストをいただいて荷物をトランクに入れて、ゴルフ場に着いたら星野さんのベンツを駐車場に停めたり、コースでは『5番アイアンを持ってこい』とか言われたら『ハイ』ってね。夜は星野さんの家で表彰式、庭でバーベキューして僕は肉を焼いたり、お酒をつくってみんなに配ったりしていましたね」

 星野氏との思い出は尽きない。「僕が2年目だったかな、星野さんがホームランを打たれた時、横に座って『何で打たれたんですか』って聞いたら『このケースで、このバッターに、このカウントでスライダーが甘くなったら打たれる』とか言って教えてくれたんですよ」。打たれてカッカしている“燃える男”からは近寄りがたい空気が充満していたのは言うまでもない。その危険区域に牛島氏は“直球質問”で飛び込んでいったわけだ。

「単純に何がアカンかったのだろうって聞きたかったので、怒られてもいいやって感じでね」。星野氏は牛島氏のそんな部分もむしろ気に入ったのだろう。「星野さんが使っていたグラブのモデルも僕が引き継きました。同じ形のモデルなんですけど、それまで星野モデルだったのが、引退されたので牛島モデルに変わったんです。引退された時、球場を一周、車でするじゃないですか、僕、後ろに乗っていました。タオルを渡したり、花束をもらったりね」。

 1986年オフ、そんな星野氏が現役引退から4年の充電期間を経て満を持して中日に監督として帰ってきた。牛島氏にしてみれば、もっとも慕っていた先輩を今度は優勝監督にしたいと張り切って当然だろう。それだけに“まさか”だった。星野氏と牛島氏の監督と選手としての関係が1986年10月下旬から12月下旬までの、わずか2か月で終わるなんて予想できるわけがなかった。

 ロッテ・落合博満内野手と中日・牛島投手、上川誠二内野手、平沼定晴投手、桑田茂投手の1対4の世紀のトレード。「えっ、俺なの。俺なのって思いがありました」。1979年ドラフト1位で浪商(大阪)から中日入りし、それこそ1年目から身を粉にしてチームのために投げて、結果も出してきた牛島氏にとって、1986年12月23日の通告は衝撃的すぎた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)