中日、ロッテでプレーした牛島和彦氏【写真:山口真司】

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牛島和彦氏は高卒2年目で開幕投手を務める予定も…直前で“幻”に

 得意球用の指になった。現役時代に中日とロッテで活躍した右腕の牛島和彦氏(野球評論家)はフォークボールの使い手としても有名だった。切れ味鋭い魔球だったが、プロ入り当初からメインの武器にしていたわけではない。プロ2年目(1981年)を51登板、2勝7敗、防御率2.76で終えたオフに、それまでの「落ちないフォーク」を何とかしようと試みた結果、指が“変化”して投げられるメドが立ったという。

 1980年のプロ1年目シーズンで8月下旬から1軍に昇格して2勝をマークした牛島氏は、2年目に早くも開幕1軍入りを果たした。しかも「『開幕投手で行くぞ』って言われていたんですよ」。その年の開幕戦(4月4日)は敵地・後楽園球場での巨人戦。「僕は巨人戦に相性がよかったんですよ。それもあったんじゃないですかね。確か(1軍投手コーチの)権藤(博)さんに言われたと思いますが、その時は『えーっ、どうしよう。何てことだ』の世界でしたけどね」。

 だが、それは幻で終わった。中日・近藤貞雄監督の1年目シーズン、開幕のマウンドに上がったのは三沢淳投手だった。「開幕の3日前くらいに『開幕投手は三沢で行くから』って言われたんです。三沢さんは開幕投手をそれまでやったことがなかったんですよ。それを聞いた時は“ああ、よかったぁ”ってホント思いましたね。開幕投手なんて僕には無理ってずっと思っていましたから。でも、今考えると、あの時やっとけばよかったですよねぇ……」。

 その後の牛島氏はリリーフが主戦場。現役生活で開幕投手の話は、結局その時が最初で最後になっただけに、振り返れば複雑な思いにもなるのだろう。しかし、2年目の段階では実力的にも未熟だったという。「1年目にちょっとだけ結果を残したじゃないですか。それで2年目は欲を出したシーズンでもあったんですけど(2勝7敗で)結果が出なかった。これじゃあ(プロでやっていくのは)絶対無理と思いましたね」。

 当初先発予定だった4月4日の開幕戦は0-1の5回から三沢をリリーフして2回1失点。「覚えていますよ、2番手で投げて(巨人)新外国人の(ゲーリー・)トマソン(外野手)にホームランを打たれて『これで調子に乗ってガンガン打ったらどうするんだ』って感じで怒られましたから」。トマソンの打撃は大爆発とはならず、むしろ三振が多いため“舶来扇風機”などと揶揄されたが「今度は『何で打たれたんだお前、こんなバッターに』って言われましたね」と苦笑いだ。

右手人差し指&中指を“ストレッチ”…腫れ上がった後に生まれた変化

 そんなスタートの2年目は5試合に先発、後は中継ぎ中心で起用されたが、納得いく数字を残せず、シーズンオフに牛島氏は思案した。「その年は、点を取られたら駄目とか思ったら、体が動かなくなるのを経験したので、そう思わないようにしようとかね。それとフォークボール。その時も投げてはいたんですけど、落ちなかったのでチェンジアップを代わりで使うしかなかった。だから、どうやったら落ちるのだろうとか、考えていましたね」。

 フォークを投げられるように毎日、右手の中指と人差し指を広げるようなストレッチを繰り返したという。「僕は指が短いので、挟んでも圧がかかってうまく抜けなかったんです。ボールが抜けないと押し出してしまって腕が振れていなかった。だから指がもっと柔らかくならないかなってストレッチしていたら、そのうちパンパンに腫れ上がってきたんですよ。やばいと思いましたね」。野球生命に関わる怪我ではないかと不安になったそうだが、これが“奇跡”をもたらした。

「腫れがひいて、ボールを挟んでぎゅっと指を曲げると、くにゃくにゃって関節が外れるみたいになったんです。そしたら、ボールを挟んでも圧がかからなくて思いっ切りズバッと腕を振ってボールが抜けた。これでフォークが落ちるようになったんですよ。たぶんストレッチで靱帯みたいなのが伸びたと思うんですよね。腫れが引いたら痛くもなかった。ボールをポンと外したら関節も元に戻るんですよ」

 こればかりは誰もが真似してできることではない。牛島氏も「他にはたぶんいないでしょうね」という。まず大怪我につながらなかったのがラッキーだったし、それでフォークが大きな武器になったのだから超ラッキーだったのではないだろうか。「このフォークがなかったら、あの時は真っ直ぐとカーブだけだったので全然通用しなかったでしょうしね。フォークが落ちるようになって、僕もこれでいけるなって思いましたから」。

 こうして牛島氏は稀代のフォークボールの使い手になっていく。プロ3年目の1982年は53登板、7勝4敗17セーブ、防御率1.40と大きく飛躍して中日優勝にも貢献したが、その裏にあったのが、右手の人差し指と中指が“変化”した2年目のオフ。まさに、その時期が野球人生におけるターニングポイントにもなったようだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)