敬遠指示に吠えて“造反”…ベンチの監督に「黙って見とけ」 疲労困憊でも貫いた意地
1979年選抜決勝で敬遠指示に激怒…伝令の選手を怒鳴りつけた
甲子園のマウンドでベンチに向かって吠えた。1979年選抜大会で、牛島和彦投手(元中日、ロッテ)と香川伸行捕手(元南海)の黄金バッテリーを擁する浪商(大阪)は決勝に進出した。箕島(和歌山)に敗れて準優勝だったが、注目度は格段とアップした。そんな中、伝説になっているのが決勝の舞台で浪商・広瀬吉治監督から敬遠を指示された牛島氏が伝令の選手を怒鳴りつけて拒否したシーンだ。心境などを当事者が語った。
それは8回裏2死二塁、7-6で1点リードの箕島の攻撃中に起きた。バッターは箕島の4番打者・北野敏史内野手。それまでの打席で右前打、中越え三塁打、右越え本塁打を記録しており、二塁打が出れば、選抜初のサイクル安打となる打席でもあった。1点ビハインドの浪商にしてみれば、当然、これ以上の失点は防ぎたい。広瀬監督は一塁が空いていることから敬遠を決め、伝令をマウンドの牛島氏のもとへ走らせた。
しかし、牛島氏は態度を硬化させた。「『投げているのは俺や! 黙って見とけって言ってこい!』と言いました。もうバテバテでしたから、敬遠するのも嫌というのがあったし、1年生から投げてきて、敬遠なんかほとんどしたことがなかったし、サイクルヒットを打たれるのが嫌で敬遠するみたいになるのも嫌だったんです」。
この選抜で牛島氏は6-1で勝った1回戦の愛知(愛知)戦、3-2で勝利した2回戦の高知商(高知)戦、延長13回4-3でサヨナラ勝ちの準々決勝・川之江(愛媛)戦、5-3でものにした準決勝・東洋大姫路(兵庫)戦とオール完投だった。川之江戦では221球を投げ、翌日の東洋大姫路戦でも150球とヘロヘロ状態。「特に川之江戦がきつかったですね、あの日は雨も降っていたんですよ。で、次の日も投げて……。決勝の朝は起きれないくらい疲れ切っていましたね」。
勝負策は裏目に出て1点差敗戦…監督は理解「しゃあない」
決勝の相手・箕島には1978年秋季近畿大会で11-4で8回コールド勝ちしていたが、その時とはコンディションなど状況が違いすぎた。「体は動かないけど、とりあえずボールを放っているみたいな感じでした」。まさに気力だけでマウンドに上がっていた。「あの時は敬遠して下手に球数を増やすのだって嫌だったんですよ」。そんな状況と持ち前の勝ち気な性格が重なっての敬遠拒否となったわけだ。
監督に対して乱暴な言葉でもあったが「僕は(伝令の選手が)“勝負したいと言っていました”とか、言葉を変えて監督に言うと思っていたんですよ。でも、あとでベンチにいたヤツに聞いたら、そのまま監督に言っていたっていうから……」と苦笑い。しかも勝負した結果、北野に右中間二塁打を浴びて、追加点を許すとともに、サイクルヒットの偉業も達成されてしまった。
「あれね、三塁まで走ってアウトになって二塁打になったんですよ。三塁打だったらサイクルじゃなかったんですよね。まぁ、あそこで敬遠しても、次の打者を抑える自信もなかったんです。そこまでの体力も全然残ってなかったのでね」と牛島氏は振り返ったが、痛恨といえば痛恨。6-8の9回表に牛島氏がタイムリーを放ち、浪商は1点差に詰め寄ったが反撃もここまで。7-8で敗れ、あくまで結果論だが、8回裏の1失点が響いた形にもなってしまった。
「(広瀬)監督にはあとで『すみませんでした』と謝りました。監督は『お前たちの力でここまで来たのだからいいよ、それもしゃあない』って話をしてくれましたけどね」と牛島氏は明かす。そんなこともあった選抜だが、この準優勝で浪商バッテリーは全国区の人気者になった。あれから45年。語り継がれる指揮官へ向けての「黙って見とけ!」発言は牛島氏にとっても、もちろん忘れられない思い出の一コマだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)