1960年〜1970年代の読売ジャイアンツを率いた王貞治と長嶋茂雄は「ON砲」と呼ばれ、日本プロ野球の黄金時代を支えてきた。作家のロバート・ホワイティング氏によれば「生涯成績を比べても、長嶋よりも王が上なのは明らかだ。しかし、それでも長嶋が圧倒的人気を得ていたのには理由がある」という――。

※本稿は、ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳『新東京アウトサイダーズ』(角川新書)の一部を再編集したものです。

長嶋茂雄と王貞治。1963年撮影。(写真=ベースボール・マガジン社『青春ホームラン王 実録小説王貞治』1963年7月25日/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)

■アウトサイダーゆえの犠牲を強いられたHR王

今回は、王貞治について考えてみよう。非凡な人生を送ってきた人物だが、彼は日本では、まぎれもなく“アウトサイダー”だった。

東京墨田区で生まれ、国籍は中華民国(台湾)。日本の野球界で素晴らしい成績をあげ、あらゆる世代を感動させて、国民のアイドル的存在になった。そればかりではない。彼のおかげで、日本のスポーツは世界的に認められるようになったと言える。

それでも彼は、“よそ者(アウトサイダー)”ゆえの犠牲を強いられた。

1960年代と70年代にかけて、王は、伝説的アイドルの長嶋茂雄と共に、読売ジャイアンツの強力なクリーンナップ・コンビ「ON砲」を形成した。〈ニューヨーク・ヤンキース〉のベーブ・ルースとルー・ゲーリッグのコンビに、しばしば比較されるほどの存在だった。

このONコンビによって、ジャイアンツはセ・リーグ優勝14回、日本シリーズを11回制覇することになる。しかも一九六五年からは、九年連続日本一という快挙だ。

誇り高き「巨人」(日本人はジャイアンツをそう呼んでいる)の活躍のおかげで、野球は当時の国民的スポーツとして定着した。ジャイアンツの試合中継は、テレビのゴールデンアワーの定番だった。

■「HR記録世界一」でも長嶋人気には勝てなかった

ときまさに、日本が世界経済の新たなスーパーパワーとして君臨し、日本製の車、カメラ、テレビが世界市場を席巻しつつあった。そんな日本のステータスを、巨人軍の躍進は象徴していた。まさに「日本野球の黄金時代」だった。

王はこのチームで22年間プレーし、1980年に引退した。その間、ホームラン王15回を含むメジャータイトルや賞を、総なめにしている。通算本塁打数868本という、世界記録も打ち立てた。

その後は監督として、ペナントレースを数回制覇し、日本シリーズのタイトルを2回獲得するなど、第二の人生も成功させている。2006年には、監督というキャリアの最盛期を迎えた。第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で監督をつとめ、〈チーム・ジャパン〉を劇的な優勝へと導いたのだ。

それでもどういうわけか、王は長嶋より人気がない。選手としても、監督としても、成績ははるかに上なのだが。

日本で「ミスター・ジャイアンツ」とか、「ミスター・プロ野球」とか呼ばれるのは、いつも長嶋茂雄であり、王貞治ではない。

長嶋は純粋の日本人だが、王は違う。その事実が関係しているのでは、という声がある。

■センバツで優勝しても、国体には出場できず

中華民国の旅行書類によれば、王は別名ワン・チェンジー。中華民国国籍の中華系移民と日本人の母とのあいだに、東京で生を受けた。父親は、中華民国がまだ中国本土を支配しているときに、日本に移住し、元の国籍をキープする選択をした。

王は若いころに人種差別をのりこえ、1957年、甲子園春の選抜高校野球大会で、〈早稲田実業〉を優勝へと導いている。

テレビ視聴者が全国ネットで見守る中、王はピッチャーとして、トーナメントの最終ステージの4日間で4試合を完投。利き腕のマメが化膿して、ボールが血だらけになったが、それでも投げ続け、自身とチームに栄光をもたらした。

しかし中華民国国籍のために、国体出場チームのメンバーにはなれなかった。東京生まれにもかかわらず、日本在住の外国人と同様、〈外国人登録証〉を持ち歩き、品川の〈出入国在留管理局〉を定期的に訪れて、更新手続きをしなければならない。

にもかかわらず、王はハンク・アーロンのホームラン記録を破り、国民的ヒーローになった。この快挙に、当時の福田赳夫首相が感動し、日本初の国民栄誉賞を設け、王に授与している。このときばかりは、王貞治が「国民」ではないことを、非難する声はあまり聞こえてこなかった。

■「世界の王」はいかにして誕生したのか

一方で読売ジャイアンツは、相変わらず王よりも長嶋びいきであることを、露骨に表明し続けた。監督として、長嶋は2回雇われたが、王は1回。ジャイアンツの終身名誉監督になったのも、王ではなく長嶋だ。

王は選手を引退したあと、在日韓国人がオーナーを務めるチームで監督を務めてから、球団取締役会長終身GMの任に就いた。

王貞治がバッターとして成長するまでの話は、ちょっとした語り草だ。

1958年にピッチャーとして読売ジャイアンツに入団してから、ストレートの威力を失ったと判断され、天性の打撃パワーを生かすため、ファーストにコンバートされた。ところが、スイングに深刻な問題があり、長い間調整に苦しむことになる。

プロ入り直後の26打席で、まったくヒットが打てず、最初の3年間は、平凡な成績で終わっていた。

たとえば1961年、ホームランは13本、打率は2割5分3厘。同じ年、35勝をあげた中日ドラゴンズの権藤博投手によれば、

「正直言って、王は簡単にアウトにできる。ストレートがまったく打てないからね。彼の打席でチェンジにできるさ」

■フォームを正すために思いついた「片足上げ」

ジャイアンツは、合気道の師範でもある荒川博というバッティング・コーチに、王の欠点を克服させた。ぽっちゃり体形で丸顔の荒川は、毎朝、自分の合気道道場で、王のフォーム改造に着手し、きわめて異例の矯正法を思いついた。

「王の欠点は、踏み出しが早すぎることと、体を開いてしまうことだね」

と荒川コーチ。

狭い場所で、体の中心に意識を集中させるために、一本足打法を思いついた。阪神タイガースの別当薫の打ち方を見ていて、ヒントを得たんだ。彼もバットを振る前のどこかの時点で、片足を上げていた。しかし王に対しては、もっと腿を持ち上げるように指導した。投球を待つ間、フラミンゴみたいに片足で立て、とね。

最初、王にはそれがとても難しそうだったよ。二人で何度も何度も練習を重ねた。少しずつよくなってはきたが、試合になると怖がって、長い間、実行できなかった。

王貞治と荒川博。荒川の自宅にて。(写真=ベースボール・マガジン社『青春ホームラン王 実録小説王貞治』1963年7月25日/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)

やがて、試すときがきた。1962年7月1日、川崎球場でおこなわれた、対大洋ホエールズ戦だ。ジャイアンツはスランプの真っただ中で、6連敗して、順位も落ち込んでいた。王のせいだという声が高かった。打率は2割5分、ホームランは9本と振るわず、三振でせっかくのチャンスをふいにすることも、少なくなかったからだ。

■「三振王」という汚名が一夜で消えた

王という名前は、日本語で「King」の意味である。スポーツ紙は彼を、「Strikeout King」の意味の「三振王」と名付け、悪しざまに扱い始めた。

ジャイアンツの川上哲治監督も、王はもう頭打ちだ、とあきらめかけていた。後がなくなった王は、新しい打法を試合で実践してみるチャンスは、今しかない、と覚悟を決めた。

王はバッターボックスに足を踏み入れた。相手はホエールズの筋金入りの右腕投手、稲川誠だ。最初の打席で、右の腿を思い切り持ち上げて、そのまま静止して、待った。

マウンド上の稲川は、はたと考えた。

「なんだありゃ? やつがあんなフォームで、俺の球を打ったことはないぞ」

稲川は振りかぶり、剛速球を投げた。

すると王は、ライト方向にライナーを放った。

シングルヒットだ。

荒川コーチはサイドラインの外から、父親のように誇らしげに見守った。

第2打席では、稲川のストレートを、ライトスタンドに叩き込んでみせた。

荒川は飛び上がって喜んだ。その晩の王は、安打3本で締めくくった。のちに荒川は王にこう言った。

「あれでいいんだ。やっと飲み込んだな。もう後戻りすることはないさ」

■「長い刀で紙を切る」練習も

確かにそれ以降、王は上り調子になった。奇妙な新打法で、7月にはホームランを10本、その後さらに20本、最終的には38本を放って、その年のセ・リーグのホームラン王に輝いている。

王は荒川道場での朝練習に、一層力を入れた。荒川が跪いて、正面から見守る前で、数時間かけて素振りをした。

荒川はただ見ているだけではなく、バットが空を切る音に、耳を澄ました。完璧なスイングのときの、「ブーン」という音を求めた。天井から紙を垂らし、サムライが持つような長い刀を振りかざして、スパッと切る練習も始めた。手首と腕を鍛えるためだ。

ジャイアンツの広岡達朗遊撃手は、こうした血のにじむような練習を目の当たりにし、王の努力に驚きを隠せなかった。

「かなり難しいことをやっていたよ」

王のチームメイトの広岡が語る。

「とくに、あの刀さばき。ブーンと振ると、空気が動いて、紙を押しのけてしまう。紙を切るためには、しっかり命中させなければならない。そのためには手首の力が相当必要だ」

王に言わせれば、

「われわれがやろうとしたのは、武道の原則をバッティングに応用することでした」

■投手がどれだけ焦らしても10秒間静止できる

翌シーズン、王はホームランを40本放ち、2年連続でホームラン王に。打率は3割5厘に上がった。

王をしとめるのが、ますます難しくなってきた。投手陣はあの手この手を試したが、無駄だった。

偉大なる400勝投手、金田正一もその一人。金田は、自分の155キロのストレートと、大きく曲がるカーヴは、誰も打てない、と豪語していたが、王に対しては戦略を変えざるを得なかった。タイミングを外すために、つっかえながら投げてみたが、これも効果なし。

この頃になると、王はバッターボックスで、右ひざを持ち上げたまま、丸々10秒間、静止できるようになっていた。もっとも長く焦じらすタイプのピッチャーでも、これでは手の打ちようがなかった。

金田は悔しそうに語った。

「王はどんな球種でも、どんなスピードでも打てる。あの集中力を切らすのが難しい」

ドラゴンズの右腕投手、小川健太郎は、やけくそで、腕を背中から繰り出す「背面投げ」を試みたが、ほかの投手と同様、失敗に終わっている。

しかし王にとっては、まだほんの序の口だった。

■3年連続首位打者、2年連続三冠王という大偉業

1964年には、シーズン55本塁打という日本記録を打ち立て、打率は3割2分。13年連続最多本塁打という、前例のない記録の、これが3年目だった。さらに1968年から、3割2分6厘、3割4分5厘、3割2分5厘と、3年連続で首位打者に。1973年と74年には、立て続けに三冠王。73年には、3割5分5厘、51本塁打、114打点を記録。これがおそらく彼のベストシーズンだろう。

阪神タイガースの村山実監督は、ぼそりとこうつぶやいた。

「彼に打順が回るたびに、頭痛がしたよ。見ちゃいられなかった」

引退するまでの記録は、ホームラン街道を独走しながら、打点13回、首位打者5回、MVP9回。1977年9月3日には、現役選手として頂点に達した。756号ホームランを放って、ハンク・アーロンのメジャーリーグ生涯記録を抜いたのだ。

とはいえ、ON時代を通じて、王は“もっとも注目された選手”ではなかった。その名誉はいつも、チームメイトのクリーンナップ、長嶋のものだった。好きな選手は、という統計でも、ダントツの長嶋にはるか及ばず、王はいつも2位に終わっている。野球のあらゆる成績では、王の方が上回っているにもかかわらずだ。

これには数々の理由があった。

まず、長嶋の方が年長であること。日本社会では、これが重要な要素になる。長嶋は立教大学出身で、1958年に新人王をとり、翌年から3シーズン続けて首位打者に輝いた。その間、王はというと、高卒で、まだ打撃フォームが定まらずに、悪戦苦闘していた。

■天覧試合でサヨナラホームランをかっ飛ばす劇場型

長嶋はカリスマ的で、元気いっぱいで、観客にウケる。三振しても、見栄えがいい。ストライクゾーンを外れた球に、大きくバットを泳がして、空振りするシーンが有名だが、バットの振りがとても速いので、ヘルメットをよく飛ばした。フィールドでも観客を喜ばせる。並みのゴロを捕球しても、どういうわけかナイスプレーに見せてしまう、そんな三塁手だった。

ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳『新東京アウトサイダーズ』(角川新書)

一方の王は、どことなく活気がない。にもかかわらず、片足を上げるユニークな打法で、大量のホームランを打つ。ほとんど故障のない精巧な機械のように、自身を改造してみせた。しかし、ある種のわくわく感に乏しい。シャイで、ストイックで、一部のファンに言わせれば、やや機械的すぎる。

おまけに長嶋は、試合をドラマチックにする天賦の才がある。1959年に、裕仁天皇が公式のプロ野球を初めて観に来た、いわゆる天覧試合で、彼は「サヨナラホームラン」をかっ飛ばした。この快挙は、その後半世紀間、吐き気がするほど何度も、ハイライトシーンで再生されたものだ。

王は王で、1964年には一試合にホームラン4本、1972年には7試合連続ホーマーという記録を打ち立てたが、この成績を覚えているファンは、はるかに少ない。王が単独でスポットライトを浴びるようになり、アメリカでも注目されるようになったのは、1974年に長嶋が引退し、王がハンク・アーロンの記録に近づいてからだ。

■長嶋が“チャンスに強い男”と言われた本当の理由

皮肉なことに、3番打者の王のおかげで、クリーンナップの長嶋がよく打てたと言える。王は生真面目だから、ストライクゾーンを外れた投球には、決してバットを振らなかった。一試合に平均1回はフォアボールを選んでいる。

接近戦の9回ともなると、ランナーがいる場面でも、王はしばしばフォアボールで出塁した。投手陣が彼と勝負するのを怖がったからだ。

ここで長嶋が、勝ち越しの安打をねらって、バッターボックスにすっくと立つ。ピッチャーは勝負するしかない。案の定、長嶋はスコーンとヒットを放つ。

かくして長嶋は、“チャンスに強い男”という、不動の評価をものにした。じつは必ずしもそうではなく、王のおかげで、たくさんのチャンスが転がり込んだだけなのだ。

----------
ロバート・ホワイティング作家
1942年、米国ニュージャージー州生まれ。カリフォルニア州立大学から上智大学に編入し、政治学を専攻。出版社勤務を経て、執筆活動を開始、日米比較文化論の視点から取材を重ねた論考が注目を集める。77年『菊とバット』(サイマル出版会、文春文庫)、90年『和をもって日本となす』(角川書店、角川文庫)はベストセラーとなった。『東京アンダーワールド』は取材・執筆に10年の歳月を費やし、単行本と文庫で20万部を超えている。他の著書に『サクラと星条旗』『イチロー革命』(以上、早川書房)、『ふたつのオリンピック 東京1964/2020』(KADOKAWA)など。
----------

(作家 ロバート・ホワイティング)