伝説右腕から「練習していないだろ!」…新天地で衝撃 明かされた“マサカリ投法”の秘密
ロッテ移籍1年目、白武佳久氏は村田兆治に度肝を抜かれた
元投手で広島スカウト統括部長の白武佳久氏は現役時代、広島とロッテの2球団で活躍した。ロッテには1989年オフにトレードで加入。移籍1年目の1990年シーズンにはキャリアハイの10勝をマークした。背番号20をつけ、新天地で躍進を遂げたが、鹿児島キャンプではいきなり試練に見舞われた。ロッテのレジェンド右腕・村田兆治投手兼コーチから「お前は練習を何もしていないだろ!」と厳しい言葉を浴びせられ、その凄さに度肝を抜かれたという。
当時のロッテ監督は陸上部並みの走り込みを課す「走れ! 走れ!」で知られた金田正一監督だったが、白武氏は「カープの方がはるかにきつかったので、楽でしたよ」と言う。「パ・リーグはDH制だから、ピッチャーは投げるだけ。もうバント練習もしなくていいし、投げることと守備練習しかない。ひとつのことをやらなくていいとなったら、そっちに物凄く集中できるし、数もこなせるから、下手だった守備がうまくなりましたね」とプラス面も多かったようだ。
もっとも、ロッテでの鹿児島・鴨池野球場でのキャンプ初日は面食らったという。「よーいどんで、村田兆治さんとキャッチボールすることになったんです。僕はトレードが決まってからの自主トレで塁間、セカンドくらいまでしかキャッチボールをしていなかったんですが、いきなり村田さんは、すーっと90メートルくらいまで下がっていったんですよ。これは投げられんと思ってブルペンキャッチャーに間に入ってもらったんです」。
前年の1989年5月13日の日本ハム戦(山形)で通算200勝を達成した大ベテランが相手でも、できないものはどうしようもない。「僕が50メートルくらいブルペンキャッチャーに投げて、そこから彼に村田さんに投げてもらった」という。「村田さんに『お前、練習を何もしていないだろ』って言われました。『いやいや、兆治さん、そんな最初から90も100も投げられないですよ』と言ったら『言い訳するな!』って。まぁその通りだったんですけどね」。
球宴にも初出場…最後は完投で10勝に到達
スポーツメーカーが同じだった縁もあって、初日からコンビを組んだが「すごい人だなって思いました。僕はその時、29歳とか30歳くらいでしたし、正直、(キャンプで)ちょっとずつやればいいかなって思っていたんですが、村田さんは初日からビュンビュン投げていましたからね」。左足を高く蹴り上げ、尻を打者に突き出し、下ろした右手に力をため込んでから思い切り投げ込む“マサカリ投法”が代名詞のレジェンド右腕が使用するグラブにも驚いたという。
「『俺のグラブには1キロの鉄板が入っているんだ』って見せてもらいました。鉄板は親指のところに入っていて、それでバランスをとって投げておられたんです。練習でも試合でもね。マサカリ投法はグラブとのバランスと足腰の強靱さがあってのこと。そこまで考えておられた。やっぱりすごかったですよ」。白武氏にしてみれば、まさに学ぶことばかり。いきなり、大きな刺激を受け、ロッテ1年目のシーズンに臨み、自身初の2桁、10勝をマークした。
26登板で10勝4敗3セーブ、防御率3.33。先発したのは4試合で、10勝のうち8勝が中継ぎでつかんだ白星だった。4月19日の西武戦(西武)では、先発・小宮山悟投手を4回途中にリリーフ。4回1/3を無失点で移籍後初勝利をマークしたのをはじめ、先発よりも長いイニングを投げて6勝をマークしたのも特徴的だ。「オープン戦は調子が悪くて2軍で調整していたんですが、その時にボールがピュッと行きだしたんですよね」。
オールスターゲームにも、怪我で辞退したダイエー・吉田豊彦投手の補充選手ながら初出場を果たした。第1戦(7月24日、横浜)で、7-0の9回1死二塁に6番手で登板。打者2人に投げて2/3を無安打無失点に抑えて試合を締めた。最後は古巣・広島の正田耕三内野手をファーストライナーに打ち取った。「最後に行くぞって言われていた。抑えたのは覚えています。いい思い出です」と笑みを浮かべた。
「あの年は本当にいいシーズンでした。最後の方は先発させてもらって10勝できたんですよね」。10月10日のダイエー戦(平和台)に先発し、7回1/3を2失点で9勝目。10月17日の近鉄戦(藤井寺)に6安打2失点完投で10勝に到達した。一方でキャンプからお世話になった村田はその年に10勝をマークしながら40歳で現役を引退。たった1年しか同じユニホームを着られなかったが、白武氏はレジェンド右腕に感謝している。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)