広島のスカウト統括部長を務める白武佳久氏【写真:山口真司】

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白武佳久氏は1年目の5月に完投勝利も…中々出番が回ってこなかった

 投手王国の“壁”は、やはり分厚かった。1982年ドラフト会議で広島に2位指名され、日体大から入団した右腕・白武佳久氏(現・広島スカウト統括部長)はハイレベルな投手陣の中で、懸命にアピールを続けた。だが、他がやはりすごすぎた。1軍での先発はローテーションの谷間。そこで好投しても、次の先発機会はなかなか来なかった。同年代の投手も多く「みんな敵だから、2軍の時は打たれろ、打たれろって思っていました」と当時の胸の内を明かした。

 1983年、プロ1年目の白武氏のデビューは開幕2戦目、4月12日の阪神戦(広島)だった。2回から2番手でマウンドに上がり、阪神・真弓明信内野手に一発を浴びるなど、1回1/3を6失点。打者9人に投げて3安打1三振3四球と、ほろ苦い結果に終わった。緊張の初登板。「フォアボールを出したのは覚えていますが、あとは全く……」と白武氏は苦笑したが、これでくじけることはなかった。

 2試合目の登板となった4月21日の巨人戦(平和台)は、1-4の7回から先発・北別府学投手をリリーフして2イニングを無安打無失点。そこからリリーフで好投を続け、5試合目の5月2日のヤクルト戦(広島)で、ついに初先発の機会を得て5-2で勝利した。初回に1点を先行されたが、主砲・山本浩二外野手の一発など打線の援護も受け、粘りの投球。4安打2失点のプロ初完投での記念すべき初白星だった。

 しかし、これで先発ローテ入りとならないのが当時のカープだ。山根和夫投手、川口和久投手、北別府学投手、津田恒実投手の4本柱が中4日、もしくは中5日で投げ、白武氏の次の出番は中7日で5月10日の巨人戦(広島)のリリーフ。「みんな抑えますから(先発では)なかなか投げられなかったですもんねぇ」。その日は4番手で2回を無安打無失点に切り抜けたが、リリーフで連投となった翌11日の同カードは1回2/3を2失点でプロ初黒星を喫した。

 2度目の先発は5月23日の阪神戦(岡山)。完投勝利をマークしてから20日後だったが、5回2失点で2勝目を挙げた。1-1の2回に白武氏が自ら勝ち越しの二塁打も放つおまけ付きだった。「(セーブをマークした)大野(豊)さんと握手してボールをもらった覚えがあります」。だが、またここから間隔が空いた。6月2日の阪神戦(甲子園)に中9日で先発したが、岡田彰布内野手と佐野仙好外野手に本塁打を浴び、1回3失点で降板となった。

続々台頭した同世代の同僚投手「あの頃はみんな敵ですよ」

「中継ぎの時は連投もあるけど、投げない時はまったく投げないじゃないですか。やっぱり調整の仕方は難しかったですよね。そういうのは誰も教えてくれませんから」。結局1年目は6月下旬に2軍落ちして、そのまま1軍に戻ることはなかった。13登板で2勝2敗 防御率5.87の成績で終わった。「まぁ、1年目だからしょうがないって感じではありましたけどね」と言うが、現実はさらに厳しかった。

 プロ2年目、広島が優勝した1984年は7月にリリーフで2試合登板しただけ。3年目の1985年は10登板、1勝1敗1セーブ、防御率3.64。2軍では勝ち星を重ねたが、1軍ではそうはいかなかった。「2軍では最多勝を獲ったりして、けっこう投げていましたからね。それでも上から呼ばれなかったのは、力が及ばなかったんだと思います」と白武氏は言う。

 加えて1985年は1歳年上の2年目・川端順投手が11勝を挙げて新人王。3歳年下の高卒4年目・高木宣宏投手も9勝、同い年の高卒7年目・金石昭人投手も6勝と同世代のライバルたちが台頭した。「焦りがなかったといえば嘘になりますよ。金石とかが上がっていって、高木とかが出てきてね。だから、あの頃はみんな敵ですよ。普段は仲がいいけど、勝負は別だから。蹴落とさないとクビになる。仕事がなくなりますからね」。

 激しい競争の世界。「2軍の時は(ライバルが投げると)“打たれろ、打たれろ”って、いつも思っていましたよ。それは間違いない。口では“ナイスピー”って言いながらね。マウンドはひとつしかない、1人しか出られないんですからね。それが普通だったし、そうじゃなければいけないと思いますけどね」。悔しさもバネにして、2軍でも頑張っていれば、必ずチャンスがあると信じて練習に励んだ。“投手王国”での争いは白武氏を強くした。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)