プロ注目右腕が「体重60キロ台前半」 貧血、栄養失調…戻らぬ体「力が入らない」
蓄積疲労&栄養不足…白武佳久氏は日体大4年時、体調不良に苦しんだ
元広島、ロッテ投手の白武佳久氏(広島スカウト統括部長)は日体大時代、首都大学リーグで通算45試合に登板し、26勝8敗、防御率1.71の成績を残した。プロ注目右腕となり、1982年ドラフト会議で広島に2位指名されたが、この大学4年シーズンは春秋ともに優勝を逃し、加えて体調問題で、苦しい闘いも経験していた。「何をやっても力が入らなくなったんです」。栄養失調みたいな状況に陥っていたという。
1980年秋、1981年春、秋と日体大は3季連続で首都大学リーグを制した。白武氏が大学2年から3年にかけてのことで、主力投手として大貢献の結果でもあった。だが、1982年の大学4年時は、春、秋ともに優勝できなかった。エースの白武氏が調子を落とした。「言い訳かもしれないけど、特に4年の春は力が出なかったんです」。体に異変が起きていたという。「練習でナンボ走ってもドベだったんです。ナンボ投げても力が入らなかったんですよ」。
これまで経験したことがない状況だったため「これはおかしいと思って、大きな病院で検査してもらいました」。結果は貧血だったという。「栄養不足、栄養失調みたいなものでした。確かにガリガリでしたからね。体重は60キロ台前半だったし……」。白武氏は大学2年途中から3年まで大学施設のカギを閉めるアルバイトをしていた。大学の寮を出て、大学の管理室で寝泊まりの生活となったが、もともと食が細いタイプ。その上に寮とは違って食事が安定していなかった。
そんな中、野球ではフル回転で結果を出し続けていた。4年になって寮に戻されたものの、蓄積疲労とともに、それまでの栄養不足が重なり、体調を崩したようだ。「普段はまだいいんですけど、練習になるときついですからね。倒れることはなかったけど、フラフラしていた感じでした」。そんな状態になるまで気がつかないほど、野球に熱中していたということだろう。一気にそのツケが来た感じだった。
大学4年時は教育実習も経験、その秋に広島からドラフト2位指名された
「レバ刺しを食べたりとか、どんどん血をつくってってことでやりましたけどね」。苦しい春のリーグ戦を終えた白武氏は故郷の長崎・佐世保に向かった。母校・佐世保工での教育実習のためだった。「単位はとっていたので教育実習にいけば、教員資格が取れるぞって言われたので、行きますよってことでね。僕らの時代の日体大野球部は1軍、2軍、3軍まであって練習時間が朝、昼、夕方に分けられていたけど教職を目指している人がほとんどでしたね」。
大学でドラフト候補投手に成長しての母校での教育実習だったが、体調がまだ万全ではなかったこともあって、野球部の練習には1日顔を出しただけだったという。当時、佐世保工のエースは2年生の香田勲男投手(元巨人、近鉄、現・九州文化学園監督)。「野球部の生徒とは話はしましたよ。香田は柔道の授業で教えました。香田の時の佐世保工は強かったんですよね」。白武氏が教育実習を行った1982年夏に母校は悲願の甲子園初勝利。そんな年でもあった。
無事に教育実習もクリアした白武氏は大学最後の秋のリーグ戦に臨んだ。体調は春よりはましになったそうだが、調子は決してよくなかった。でも、そんな中でもプロからは高く評価され、広島がドラフト2位で指名。「もしもドラフトにかからなくても、先生にはならずに社会人で野球をやるつもりでしたから、うれしかったですけどね」。佐世保工、日体大を経て、次の舞台は“投手王国”広島。白武氏にとって、それは正直、想定外の新天地だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)