楽天は「もう100%最下位」 予期せぬオファーに苦悩…妻のひと声で決めた初代監督
田尾安志氏は現役引退後、キャスターなどで活躍…コーチ要請も断った
現役時代に中日、西武、阪神で活躍した田尾安志氏は2005年シーズン、新球団・楽天の初代監督を務めた。1991年シーズン限りで現役引退した後、野球評論家であるとともに、フジテレビ「プロ野球ニュース」のキャスターを務めるなど、幅広く活動していた中での監督就任だった。楽天からは当初、「誰を監督にしたらいいか」とアドバイスを求められ、候補者について自身の意見を述べていたところ、最後になって「監督をやってみませんか」となったという。
現役引退後の田尾氏はキャスター業にも挑戦し、人気を博した。新たな世界で勉強することばかりだったそうだが、自身のコメントに関しては「球団に対して媚びを売るとか、そういうことは意識せずにやろうと考えていました。“田尾、言っていることがおかしいぞって時にはクビにしてもらっていいですよ”と、そこの割り切りはいつも持ちながらやろうと、そういう気持ちでいたんですよ」と明かす。そういうところも世間に受け入れられた要因だったかもしれない。
ユニホームを脱いでも日々の充実感はあったようだ。「ウチの女房は、結婚してちょっとして『野球選手じゃなかったらよかったのに』って言っていた時期がありましたからね。だから選手をやめた時はよかったって思ったみたいです。『選手の時は預かっているような気持ちだった。選手をやめてやっと自分のところに帰ってきてくれた。できたらもうユニホームは着てほしくない』って、その時は言っていましたからね」。
実際、楽天監督になるまでは、2001年から2002年にIBAFワールドカップ、アジア大会、インターコンチネンタルカップで野球日本代表コーチを務めた以外は、ユニホームを着ていなかった。その間、ダイエー(現ソフトバンク)から打撃コーチのオファーがあったが、断っていた。「(当時ダイエー監督の)王(貞治)さんから何回かお電話をいただいたんですが、子どもにお金がかかる時期でコーチの給料ではやっていけないかなって思って……。いくらでと聞くのは失礼だと思ったので、条件は聞かずにお断りしたんです」。
旧知の球界関係者からは「何で断ったんですか」と言われたという。「あの頃はコーチよりも(キャスター業なども含めて)評論家の方が稼いでいましたからね。でも“田尾さんが言ったらナンボでも出してくれましたよ”という人もいて、じゃあ言えばよかったかなって。条件を聞いていなかったわけですからね」と笑いながら話す。楽天監督にしても、そもそもやるつもりはなかったそうだ。
楽天初代指揮官の人選アドバイスのはずが…「監督をやってみないか」
「最初は『誰を監督にしたらいいか』とマーティ・キーナート(GM)から相談されたんです。(球団代表の)米田(純)さんと3人で食事をしながら話し合った。いろいろな候補者の名前が出ていました」。田尾氏は候補者について正直な意見を述べたという。ところが最後になって“流れ”が変わった。「マーティーから『監督をやってみないか』って言われたんです。最初からそういう方向に持っていこうとしていたんでしょうね。やることがまわりくどいんですよね」。
オリックスと近鉄の合併が決まり、再編問題が勃発した2004年のプロ野球界。楽天とライブドアが新球団に名乗りをあげ、田尾氏に楽天からオファーがあった時はまだ新規加入が認められていない段階だった。「僕は断るつもりでした。女房も反対すると思ったんでね。でも『初代監督なんて一人しかいないんだよ』って背中を押してくれたんですよ」。オファーを受けた時に席を外して宏子夫人に電話したところ、そう言われたという。「それで話を聞いてみようかとなったんです」。
後日、条件面をすり合わせて、3年契約で引き受けることにした。新規球団の戦力は乏しくなる。「これはもう100%最下位を食らう。その監督をやるわけですから、田尾は能力がないな、と見られるだろうな。そこは覚悟しないといけない。でも誰かがやる仕事なのでね」。2004年10月13日に田尾氏の監督就任が発表された。11月2日のオーナー会議で楽天の参入が承認され、新球団は正式に動き出した。
「(契約期間の)3年間の中で、プロ野球レベルの最下位のところまでは持っていきたい。僕はそれを4勝5敗ペースの借金16と思っているので、何とかそこまでにして、次の監督にバトンを渡せれば、自分の仕事は達成したかな、と考えようと思った」と田尾氏は振り返った。近鉄のエース・岩隈久志投手が加入したのは大きかったものの、やはり現実は厳しかった。予想通りの険しすぎる戦いが続いた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)