国民年金は、岸政権の公約実現のため、突貫工事で成立させるしかなかった(写真:camcamsour/PIXTA)

1958年(昭和33年)5月22日、日本政治史で初めて年金が争点の選挙が行われた。この選挙で自民党が完勝。岸信介首相は国民年金の実施に前のめりとなった。岸政権の公約実現のため、国民年金は小さく産んで、後で大きく育てるしかなかった。そして、国民年金は、野党、研究者、メディアから攻めるに容易い制度としてスタートしてしまう。

ここでは、『週刊文春』の記者として年金問題を追い続けてきた和田泰明氏の著書『ルポ年金官僚』から一部を抜粋。年金官僚たちが、政治に翻弄されるキッカケとなった国民年金制度スタート前夜の攻防を紹介する。

(全3回の2回目)

拠出制か無拠出制か


国民年金準備委員会事務局の格子状の窓からは、完成間近の東京タワーが、にょきにょきと伸びていく様子を望めた。それは事務局内の活気を反映しているかのようだった。

今でこそ年金といえば、保険料を支払うのが当たり前だが、制度発足当初、侃々諤々の議論が行われた。

当時、保険料を納付した人が年金を受給する社会保険方式を「拠出制」、保険料を納付しなくても税を財源に年金を受給できる税方式を「無拠出制」と呼んだ。財政を考えれば拠出制が良いに決まっているが、全国民を対象にした年金を謳いながら、すでに高齢の人や、保険料を払う財力のない人は、無関係の制度となってしまうため、与党・自民党内でも無拠出制の声が多かった。

事務局内でもやはり、無拠出制が俎上に載っていた。「国民年金発足三五周年記念座談会」(『週刊年金実務』1996年11月25日号)などによれば、こんなやり取りがあった。

「これだけ急いで年金制度を実施するということだが、現実に国民が望んでいるのは無拠出です」(岡本和夫参事官)

「私も本格的な年金をつくりたい。ただどうにもならないのが、保険料を出すにも出せない人が相当数いるはずということ。それをどうするか……」(加藤信太郎参事官)

これに猛反発したのが、尾崎重毅事務局次長だった。

「いやしくも国民年金というものをつくる以上は、拠出制を原則にすべきではないか」

周囲は、尾崎が厚生年金保険課長という立場も兼ねていたため、拠出制のみにこだわるのだろうと感じていた。

「そんな考えは紙くずと一緒に捨ててしまえ」

だが尾崎が言いたいのは、国民の心理的なことだった。

「とにかく日本国民というものは、もらうものは喜んでもらうけれども、出すのはいやがる。例えば年金をもらうことになった場合、5000円じゃ少ないから1万円にしろ、1万円じゃ少ないから2万円にしろという。そういう圧力というのは必ず政治家にかけてくる。政治家はそれを大蔵省なり厚生省に言う。そうすると国家財政上大変なことになるんじゃないか。やはり、もらう以上は出すことも考えなければいかん。資本主義社会というのはそういうものなんだ」

加藤参事官は保険料を出せない人の手当をしつつ、基本は拠出制にすべきとの考えだった。

「無拠出にすると大蔵省は財政の都合で、もうこれ以上出せませんということになり、年金が立枯れになってしまうだろう。拠出制だと、実質価値が維持されないじゃないかという事になるだろうが、いずれ必ず物価に対応させるだろう。だから拠出制にしたい」

逆に岡本参事官は、無拠出制なら大蔵省が給付を上げることにストップをかけるのではと見ていた。

「無拠出にしておけば財政的にこれ以上は出せませんということは言えるわけです。ところが拠出制になったら、最初のうちは受給者がいないから出すものは出さないで、給付のほうだけどんどん上げちゃうんじゃないか」

尾崎局次長は、自身が四面楚歌になっているように感じた。加藤たちは、全国民を対象にした年金はどうしても抜け落ちる人が出てくる、それを補うには無拠出も必要だ、との考えで無拠出制を提示したに過ぎないが、尾崎は無拠出の先行を阻止したいあまり、苛立ちを見せるようになる。

若手の田川明が無拠出に触れたメモを出したところ、

「そんな考えは紙くずと一緒に捨ててしまえ」

と尾崎がその紙を破った一幕もあった。

収拾がつかなくなった尾崎は、事務局長と保険局次長を兼務する小山進次郎のもとを訪ねた。

「弱っているんですよ。このことにケリつけないと、これから事務局が回っていかない」

小山は、

「そりゃ尾崎君。キミの考えは正しいのだから、それでいこう」

と後押しをした。

その後、小山は激務の合間を縫って事務局に顔を出さざるをえなくなった。尾崎と若手官僚たちのバトルは、むしろ活気があっていいと感じていた。

小山は事務局の総意を一気に取りまとめた。拠出制を基本とする一方、「皆年金」に配慮して、すでに高齢の人や、保険料納付が困難な人に保険料免除を設け、「経過的・補完的」に無拠出制を組み合わせる──。そんな方針に固まった。

初の年金が争点の選挙

その頃、衆院解散が取り沙汰されていた。「55年体制」の新たな政治状況が生まれ、信を問うたほうがいいといった程度の理由で「話し合い解散」と呼ばれた。事務局発足から2週間ほどたった1958年4月25日、衆議院が解散。岸信介総理は、日比谷公会堂で行われた遊説第一声の演説でこう述べる。

「国民年金制度は今日の公約で最も注目すべきであり、これを(昭和)34年(1959年)度から逐次実施することにより社会保障の画期的な前進を期したい。これにより生活力に恵まれない老齢者、母子世帯、身体障害者の生活が保障されることとなり、福祉国家の完成へ大きく前進することになると信ずる」

こうして日本政治史で初めて、年金が争点の選挙が行われた。

5月22日の投票結果で自民党287、社会党166、共産党1(定数467)と自民が完勝。その原因が、自民党が国民年金の具体的な数値を示したためと評され、岸は前のめりとなった。

事務局には新たな、そして最も重要な仕事が舞い込んできた。7月23日、福田赳夫政調会長の下に発足した、自民党国民年金実施対策特別委員会の事務方としての作業だ。委員会を率いるのは、大蔵次官に上り詰めた後に政界入りし、吉田茂内閣で建設大臣などを務めた大物・野田卯一。2021年の自民党総裁選に出馬した野田聖子の祖父である。

小山にとって悩ましいのは、国民年金創設に向けて「4頭立て」で進んでいたことだった。厚生省、特別委員会、厚生省内に設置された国民年金委員、総理の諮問機関・社会保障制度審議会(制度審)である。

制度審は、大蔵大臣要請を再三断ってきた財政学の重鎮、大内兵衛・法政大総長を会長とし、絶大な権威を誇った。一方で国民年金委員も、元大蔵次官の長沼弘毅・公正取引委員会委員長をトップに学者や財界の第一人者で構成された。互いに牽制し合う関係になってしまったのだ。国民年金事務局内で激しく議論された「拠出制か無拠出制か」にしても、制度審は無拠出制、国民年金委員は拠出制を重点に置いていた。

そこで小山はどうしたか。ほぼ無視するのだ。

それから年月が経過していない『週刊社会保障』(1959年8月号)の寄稿「国民年金制度周知月間を迎えて」で、小山は隠し立てすることなく振り返っている。

もうこの段階に入ったら何はともあれ自分達の考えでまとめるより外はないと判断し、どちらへも伺いを立てることは一切しないことにした。同様に省内に対しても連絡は最小限度に止めることで我慢してもらうことにした。

結婚の儀前日に法案成立

岸政権は衆院選での公約を守るべく、1959年1月30日、国民年金法案の閣議決定に漕つける。国民年金準備委員会事務局発足から10カ月という早業であった。

国会審議は、スムーズすぎるほどだった。4月8日、修正案を参議院が可決、翌9日、衆院に回付され、法案はわずか2カ月で成立した。大事業にしては、拍子抜けするほどのスピード成立である。

その日の午後──。オンボロの厚生省仮庁舎2階に、スーツ姿の官僚や女性職員、30人ほどが集まった。雨に濡れた窓の外には、前年12月に完成したばかりの鮮やかな赤色の東京タワーがそびえていた。

やがて紙が配られた。そこには尋常小学校唱歌『二宮金次郎』の替え歌が書かれてあった。

「て〜ほ〜ん〜は、こ〜や〜まし〜んじ〜ろう」

一同が声を合わせる。苦労が想い起こされ、涙を流す者もいた。ほんのりと赤い顔が見えるのは、冷酒が振る舞われたからだけではないようである。

歌声の先で、煙草を燻らせる、丸眼鏡でほっそりした小山の顔がほころんだ。事務局設置からわずか1年で法案成立という神業は、小山の舞台回し、そして職員を一丸にするリーダーシップがあってこそと、事務局の誰もが感じ、替え歌までつくられたのだ。

翌10日の新聞各紙は、皇太子(現上皇)と正田美智子さん(現上皇后)の写真がトップニュースを飾った。その日、二人の結婚の儀やパレードが行われるためだ。

国民皆年金のスタートが、そんなめでたい日と重なったのは、年金制度の前途洋々の未来を予見しているかのようである。

しかし、そうはならなかった。

早産児

国民年金法成立を受け、1959年5月1日、厚生省に年金局が発足した。定員は50人に膨れ上がった。初代年金局長は、もちろん小山進次郎。44歳であった。

なぜゼロから立ち上げた難事業が、スピード成立できたのか。

2020年7月、私は事務局の最若手官僚だった吉原健二に、八丁堀のビルの一室で会った。この時88歳ながら、日本医療経営実践協会代表理事を務めていた。吉原はこう振り返る。

「当時は年金というものがあまり知られていなかったことや、法律が難しくてどこをどう修正してほしいかわからなかったのかもしれません」

一方、小山は『国民年金法の解説』で、こう称えている。

「国民の強い要望が政治の断固たる決意を促し、われわれ行政官のこざかしい思慮や分別を乗り越えて生まれた制度」

小山は運営上、きわめて難しいことをわかっていた。外国の年金は自営業者や無職の人を対象にしていない。だが「皆年金」を目指すため、定額拠出、定額給付とし、所得が低い人やない人は保険料納付の免除制度を設けた。

例えば『朝日新聞』1959年4月10日付の1面は、法案成立を報じた記事の中で「(自民党の)公約よりかなり後退することとなったが同法の施行に伴い一応わが国社会保障制度の骨組みが出来上ることとなる」と、手放しで褒めてはいない。ページをめくると「国民年金制の問題点」という特集記事まで組まれている。いくつか問題点をあげ、拠出制の給付について「40年保険料を納めてようやく月3500円の年金受給資格を得るというような世界で最も長期の年金制であるため、その間にインフレでも起きればせっかくの掛金が無価値になるという心配がある」と指摘した。

そんな「分別」を、与野党一丸となった政治主導で乗り越えてしまったがゆえに、国会で細かな所を議論しようもなかったということだろう。

小山はしばしば国民年金を「早産児」に例えた。岸政権の公約実現のため、突貫工事で成立させるには、小さく産んで、後で大きく育てるしかないのだった。

だから年金は、野党、研究者、メディアから攻めるに容易い制度としてスタートしてしまうのである。 

(第3回につづく)

(和田 泰明)