奈良県 金峯山寺(写真:Sanga Park / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は紫式部に言い寄り、後に夫となる藤原宣孝のエピソードを紹介します。

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996年、紫式部は父・藤原為時の赴任に伴い、越前国(福井県)にいました。しかし、雪国での生活は、式部の肌に合わなかったようです。望郷(京)の念につねに取り憑かれていました。

年明け早々に舞い込んだ一通の手紙

そんな式部に、一通の文が舞い込んできます。それは、年が明け早々の時期でした。手紙の送り主は、昨年も式部に手紙を寄越していたようで、そこには「年が明けましたら、唐人を見にそちらに参りますよ」などと書いてあったようです。

そして、年が明けて送ってきた手紙には「春になれば、氷さえ東風に解けるもの、人の心もうち解けるものだと、教えてあげたいものです」と記されていました。

文を見た式部は、例により、一首詠んでいます。

「春なれどしらねのみ雪いや積り解くべきほどのいつとなきかな」(春には解けるものなど、とんでもないことです。この国の白山の雪は春が来ても、いつ解けるかわかりません)という意味です。要は、手紙の送り主の考えを一蹴しているわけです。

ちなみに、「唐人(中国人)を見にそちらに参りますよ」というのは、995年の秋、中国から唐人70余人が若狭国に漂着し、彼らはその後、越前に移住させられていました。式部の父・為時は、彼らと会い、詩を贈ったりもしています。

さて、話を戻しましょう。式部に「唐人を見にそちらに参りますよ」と手紙を寄越した人は、男性のようです。しかも、何度か式部に手紙を送ってきている。これは、その男性が式部に想いを寄せていることを示しています。

一方、式部の反応はどうだったのでしょう。「年が明けましたら、唐人を見にそちらに参りますよ」という手紙に返事をしなかったのか、それとも手紙を送ったとしても、冷淡な内容だったのではないでしょうか。

そのため男性は、年が明けてから「春になれば、氷さえ東風に解けるもの、人の心もうち解けるものだと、教えてあげたいものです」などと式部に伝えてきたようです。頑なな式部の心を解かすために。


福井県にある紫式部公園(写真: T.Fukuoka / PIXTA)

「唐人を見にそちらに参りますよ」などと言っていたその男性は、年が明けても、やって来ませんでした。男性も元々行くつもりはなかったでしょうし、式部にもその事は最初からわかっていたのでしょう。

男性はほかの女性にも言い寄る

式部は別の歌の詞書に「近江守の娘に言い寄っているという噂がある男性が、あなた以外の女性のことなど思ってはいませんなどと、しつこく言ってくるので、うるさく思って」と書いているのですが、その「噂がある男性」というのも「唐人を見に参りますよ」と言った男性と同一人物だと考えられています。

男性から想いを寄せられたことに対し、式部は「みづうみに友呼ぶ千鳥ことならば八十の湊に声絶えなせそ」と詠んでいます。(近江の湖に連れを求めていらっしゃるというではありませんか。同じことなら、あちこちのほうに声を止めずにかけてはいかが)というような意味です。この歌は、式部が越前に行く前のものと考えられています。

とにかく式部としては、この男性の想いに応える気はないようです。

ちなみに、このしつこい男性は、藤原宣孝であるとされます。式部とは親戚、「またいとこ」の関係でした。

宣孝の父は藤原為輔で、正三位権中納言でした。母は、藤原守義の娘。宣孝は、備後・周防・山城・筑前などの国司を経験しています。

平安時代の代表的女性として、紫式部と並び称される清少納言の随筆『枕草子』には、実は宣孝が登場しているのです(115段「あはれなるもの」)。それは、次のような話でした。

当時、大和国(奈良県)吉野の金峯山詣は、長い精進をして、質素な服装で行うのが慣習でありました。ところが、宣孝は「つまらぬ話だ。いい服を着て、参詣したら、なぜいけない。御嶽の神様が、質素な服で詣よ、などと仰るはずがない」と言って、紫のとても濃い指貫、白い襖(あお)といった派手な格好をして、参詣したのでした。

宣孝は長男の隆光にも、青・紅の衣を着せて参詣させました。人々は、昔からこのような格好で参詣した者はいないと噂し合ったようです。

そして990年4月1日、宣孝は京都に帰ります。すると6月10日、宣孝は筑前守に任命されたのでした。

『枕草子』には、宣孝のこのようなエピソードが載っているのです。

世の中の常識にとらわれない宣孝

世の常識にとらわれない豪放な人であったことがわかります。ちなみに、宣孝が筑前守に任じられたときには、40歳ほどでした。

式部にしつこく恋文を寄越したときは、50歳目前。20代後半の式部からしたら、かなり年上です。式部からしたら、そのことも、少しひっかかっていたのかもしれません。

しかも、先述したとおり、宣孝はすでに結婚して子どもがいました。藤原顕猷の娘との間に隆光が、平季明の娘との間に頼宣が、中納言・藤原朝成の娘との間には儀明(生母不明とする説あり)・隆佐・明懐が生まれています。

しかも、近江守の娘に言い寄っているとの噂もある。式部が困惑するのも当然です。

式部の父・為時と宣孝は、親戚ということもありますが、儀式の際に席を同じくすることもあり、知り合いだったと考えられています。

父の口から宣孝の話題が出て、式部がそれを聞いたこともあったかもしれません。また、宣孝の金峯山詣の話などは、都でも話題になったでしょうから、式部もリアルタイムで聞いたはずです。

それはさておき、式部に想いを寄せる宣孝。すでに数人の妻と多くの子も持つ中年男性の宣孝は、式部が都にいたときから、彼女を口説いていたのです。しかし、式部のほうは、余り乗り気ではありません。

式部はそれを受け入れずに、都を去り、越前に向かいます。そこにも、宣孝は手紙を何度も送りつけてきました。最初は式部も(鬱陶しい)と思ったかもしれません。とはいえ、都から遠く離れた侘しい雪国での暮らしに式部はうんざりしていました。

ついに式部は宣孝との結婚を決意

そうした時にも宣孝の手紙は都からやって来る。式部はふと思ったかもしれません。(周りを見渡して、これほど自分のことを想ってくれる男性はいるだろうか)と。

さらには(宣孝様と結ばれたら、早々に都に帰ることができる)との想いも芽生えたと推測されます。そして、ついに式部は宣孝との結婚を決意します。

997年の秋か冬、もしくは998年の春に式部は都に舞い戻ったとされます。父を越前に残して。供の者はいたでしょうが、父のもとを離れて「一人旅」のようなものです。結婚に対する式部の並々ならぬ覚悟がそこからも窺えます。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)