福島県浪江町内ではFCVが目立つ(記者撮影)

政府は2023年6月、6年ぶりの改定となる水素基本戦略を公表し、供給網構築に15年間で15兆円を投じ、2040年までに現状の6倍となる年間1200万トンの水素を国内外から調達する計画をぶち上げている。

水素の供給コストは現状、天然ガス(24円/N㎥=2023年3月)の4倍以上となる100円/N㎥だが、2050年には20円/ N㎥まで引き下げていくという。今後15年間で3兆円の値差支援を行う方針も打ち出した。

需要面では火力発電所での混焼や専焼、FCV(水素自動車)や鉄鋼原料での活用促進などを掲げる。だが、発電所での水素活用はまだ実証段階で、水素ステーションやFCVの普及は遅々として進まない。

一方、「水素タウン構想」を掲げる福島県浪江町では、FCVが走り回り、道の駅では水素で照明が灯る。町内のカフェでは「水素コーヒー」も登場した。一般家庭では小型水素ボンベで電力の一部を賄う実証も行われている。震災復興が続く町で、水素社会の未来を探った。

復興道半ばの町で急速に進む「水素タウン構想」

「東京都は2024年度に水素関連予算を前年度から(200億円に)倍増した。需要と供給の両面で社会実装を進めて、未来を力強く引き寄せたい」

3月27日、東京・晴海で行われたENEOSの水素ステーションの開所式で来賓の小池百合子東京都知事は胸を張った。東京五輪の選手村跡地に建てられたこの水素ステーションでは、併設の大型水素製造装置で都市ガスから毎時300N㎥の水素ガスが生産される。


東京・晴海の水素ステーションの開所式(記者撮影)

このステーションでは、水素ガス1kgあたり2000円で販売されるほか、全国初となるパイプラインによる供給で、街区内のマンションや商業施設の燃料電池に水素が送られる。マンションでは共用部の照明やエレベーターの電力の数%を賄うという。

車両向けの水素供給事業を担うENEOSの藤山優一郎常務は、式典で「エネルギーとモビリティを支える拠点に育てていく」と力を込めた。

ただ、水素ステーションは全国で着々と増えてはいるものの、まだ稼働は160カ所程度。2030年に1000カ所の政府目標は絵に描いた餅だ。

華々しい開所式が開かれた東京から270km余りの福島県浪江町。福島第一原発から最短4kmに位置し、原発事故で居住人口は激減。震災前の10分の1、2162人になった(2024年1月現在)。いまだ8割の土地は帰還困難区域で人が住むことができない。

そんな復興道半ばの町で、いま急速に進んでいるのが「水素タウン構想」だ。

県内3カ所目となる水素ステーションが浪江町に開業したのは2022年12月のこと。地元の重機リース会社、伊達重機が「水素で町を盛り上げたい」と国や県、町の補助金を活用して約5億円を投じて建設した(補助金は4億円)。

水素ガスは町内の実証施設「福島水素エネルギー研究フィールド」(FH2R)から調達し、毎月2〜3回、ステーション内のタンクに充填される。実証段階ということもあり、月額数十万円の仕入れ費用は「これから1年分まとめて請求される」(担当者)という。


浪江町内の実証施設「福島水素エネルギー研究フィールド」(記者撮影)

販売価格は1650円/kg。トヨタ自動車のFCV「ミライ」をゼロから満タンにすると9240円になる(航続距離850km=充填水素5.6kgの場合)。水素ステーションは伊達重機でレンタカーとして貸し出すミライ50台のほか、一般の利用も月に50台ほどあるという。

水素ステーションのはす向かいの自宅でカフェを営むのが畠山浩美さん。畠山さんが避難先の茨城県から浪江町に戻ったのは5年前のことだ。帰還した住民の憩いの場になればと「hana cafe」を開業した。

日立が進める水素供給の実証に町民が参加

畠山さんは2023年9月から、日立製作所などが進める一般家庭への水素供給の実証に参加している。毎週金曜日には、業者が小型水素ボンベの充填にやって来る。12本のボンベを装填した燃料電池装置で水素と空気中の酸素を反応させて電気を起こし、家やカフェの電力の一部を賄っている。


一般家庭に設置された水素発電設備(記者撮影)

「電力は750ワットで、コーヒーメーカーでお湯を沸かすくらい。電気代も変わらない」と畠山さんは言う。それでもhana cafeでは「水素で沸かしたコーヒーが飲める」と町内で評判になっている。

「水素と言えば原発建屋の水素爆発が真っ先に思い浮かぶ」(別の町民)と言うように、浪江町の町民にとって、「水素は怖いもの」だった。だが、畠山さんの水素に対するイメージは確実に変化している。

「水素ステーションのものものしい工事が始まり、最初は水素なんて大丈夫かなと抵抗感もあった。でも、水素自体は安全で環境にやさしいエネルギーだと知って自分も何か貢献できればと思うようになった」(畠山さん)

水電解や水素の輸送、燃料電池などに割高なコストがかかることも学んだ。「電気代が1割程度上がっても、水素を使っているなら許容できる。水素の良い面が発信されて、浪江町から利用が広がっていけばいいと思う」と畠山さんは言う。

町で水素の利活用に向けた意識醸成を担っているのが、総合商社の住友商事だ。浪江町役場の職員と住友商事の社員が海外で知り合ったことがきっかけで、2021年1月に「水素の利活用及びまちづくりに関する連携協定」を締結した。

住友商事エネルギートランスフォーメーショングループの市川善彦ユニット長は、「水素が社会に広がっていくには、コストを含めハードルがある。ただ、住民が進んで水素を使うことで生活の豊かさやプライドを感じることができる。そうした事業を浪江町と一緒になって実践し、ノウハウを全国に横展開したい」と話す。


駅前の「住箱カフェ」と澤村なつみさん。コーヒーから水素をめぐる話題も広がる(記者撮影)

連携協定をもとに、浪江町で水素事業に取り組むのが住友商事水素事業第一ユニットの澤村なつみさんだ。2021年に浪江町に移住し、地元の小学校で水素教室を開いたり、町のイベントで水素エネルギーの仕組みをPRしたりしている。

「町民へのヒアリングでは、多少ものの値段が高くなっても浪江町から水素の利用が広がっていくなら構わないという声、防災の観点から地産地消のエネルギー源は持つべきだとの声も聞かれるようになった」と澤村さんは言う。

JR浪江駅前ではアウトドア事業会社のスノーピークと連携して、木造コンテナを使ったカフェやコワーキングスペース事業にも取り組んでいる。カフェではFCVから電力が供給され、コーヒーメーカーや電気釜が稼働する。

町民の生活にどう水素がつながる?

澤村さんは地元での宴席などはもちろん、ご当地ヒーローの一人、「水素ウーマン」に変身してイベントに参加するなど、プライベートでも地元の住民と接しながら、自然体で水素の普及に努める。


コーヒーは「H2コーヒー」と名付け、430円で販売している(記者撮影)

「町民には前向きな声と同時に、実証施設に自由に立ち入ることもできず自分たちが水素事業に関わりたくても関われないという話も聞く。町内で何が行われ、自分たちの生活にどうつながっていくのかを見せる努力を続けることが必要だ」と澤村さんは指摘する。

浪江町では駅前の大規模再開発が控えており、2026年度から集合住宅、交流施設や商業施設が順次竣工する。そこでは水素が重要なエネルギー源となる。住友商事は商業施設の一角で水素関連の体験ができるコーナーの設置も構想している。

「水素を使うことがクールだというライフスタイルを駅前の再開発事業の中でも見せていきたい」と前出の市川氏は意気込む。

水素をはじめ、新しい技術の導入に挑戦する町の雰囲気に感化され、町外からの移住者も1人また1人と増えている。いまでは移住してきた約700人が町の新しい住民となった。

白河市から移住し、町で地元農産品を扱う商社を起業した緒方亘さんもその一人だ。「浪江町の復興には若い力が欠かせない」と知人に促され、移住を決めた緒方さん。


帰還住民と移住者の交流も活発だ(記者撮影)

ただ、町の水素事業に対しては、「環境にやさしいのはわかるが、それが自分の仕事や生活にどう還元されるのかイメージできない」と、冷静な目を向けている。

緒方さんら移住者の相談役になっているのが、2017年の避難指示解除前から一時宿泊でいち早く帰還した佐藤秀三さんだ。

佐藤さんは、「浪江町の放射線量や体への影響について、13年間われわれは勉強してきた。その目で見れば、水素がどういうものなのか、コストが高くなることも家庭に普及するまで時間がかかることも理解できる。水素爆発のイメージが強烈に残るわれわれだからこそ、水素を受け入れる土壌もある」と語る。

「原発事故で浪江町は一度ゼロになった」

浪江町が「水素タウン構想」を掲げたのは、震災から10年が経過した2021年7月のこと。新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)などが、原発予定地だった棚塩地区の広大な敷地に水素製造実証プラントのFH2Rを建設したことをきっかけに、「水素の町」を前面に打ち出した。

浪江町の吉田栄光町長は、「震災と原発事故で浪江町は一度ゼロになった。エネルギー変革の時代にいるわれわれが、新しいまちづくりを進める中でどんなエネルギーが社会に貢献するのかを考えた時、水素は大きな柱になる」と言う。

FH2Rでは太陽光発電による電力で水を分解し、毎時1200N㎥(定格運転時)の水素を製造する。1日で150世帯分の電力に相当するエネルギーを生み出す計算だ。

ここで製造される水素が、水素ステーションや役場、道の駅、温浴施設などの燃料電池に供給される。各企業は国や研究機関の補助金を独自に獲得し、供給網構築に向けたさまざまな実証を町内で行っている。

町役場も国の補助金を活用して年間3億円弱の予算を組んで水素事業を推進する。公用車やスクールバス、スーパーの移動販売車のFC化や、使用電力の100%を再生可能エネルギーで賄う「RE100」の工業団地の実現にも目下、取り組んでいる。


町内にはあちこちに燃料電池がある(記者撮影)

2026年度にはFH2Rは運営主体を変え、商用化に入る方針が公表されている。いよいよ実証段階から、実用化の段階に移行することになる。

吉田町長は、「水素エネルギーの実用化では、コスト負担を含めて新たな考え方が必要になる。国のエネルギー政策全体の中で水素がどう活用され、制度が整えられていくのか、大きな関心を持って注視している」と話す。

水素社会の到来には消費者の意識醸成が不可欠

ただ、水素に限らず、クリーンエネルギーの事業化の段階では、確実な需要があるのか、あるいは供給体制の構築が先なのかで、堂々巡りの議論に陥りがちだ。

住友商事の市川氏は、「はじめから大規模に導入しようとすると、場所やコストの問題でハードルが高くなる。まずは小規模な地産地消のエネルギーからはじめて、住民の需要を喚起する。社会受容性のハードルを下げることで、一定の需要が期待できるようになる」と言う。

政府の水素基本戦略では、「水素・アンモニア政策、そして政策に基づく企業への支援等に対する国民理解を得ていくためには、国民、自治体への丁寧な情報提供や、継続的な対話の積み重ねが重要である」と記されている。

水素社会を本当に実現させるためには、産業界の需要拡大の努力はもちろん、割高なコストを受容できる最終消費者の意識醸成も不可欠だ。浪江町の取り組みは、日本に水素社会が定着するかどうかの大きな試金石になる。

(森 創一郎 : 東洋経済 記者)