上賀茂神社鳥居(写真: Katsu / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は藤原道長の兄、道隆のエピソードを紹介します。

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990年5月、藤原道長の父・兼家は、病により出家します。兼家は長年、摂政として活動してきましたが、この年関白にも就任しました。しかし、その関白も、病を理由にして、わずか3日で退任。同年7月2日に、62歳の生涯を閉じることになるのです。

兼家が病気を患ったとき、息子や娘たちも心配して、病気平癒の祈祷なども行われました。

物の怪がある場所から引っ越したが…

また、兼家は二条京極第に住んでいたのですが、そこはもともと、物の怪の祟りがあるとして有名な場所でした。そのため、息子たちも「お住まいを変えたほうがよい」と勧めますが、兼家は二条京極第を気に入っていたこともあり、なかなか聞き入れませんでした。

ところが兼家の病は重くなる一方で、ついに東三条院に住まいを移しました。それでも、病は回復せず、兼家の死を聞いた人々は「本当ならば、70、80歳までも生き永らえる人であるのに」と嘆き悲しんだそうです。

兼家は、出家とともに、嫡男の藤原道隆(38歳)に氏長者と関白を譲っていました。

道長はこのとき、25歳でした。兼家が亡くなる年の1月、道隆の娘・定子は、一条天皇のもとに入内しています。そして同年10月には、女御から中宮となるのです。

道長は当時、権中納言でしたが、自身の姪に当たる定子の中宮大夫(中宮のお世話をする役割)にも任じられます。これは、兄・道隆の取り決めでしたが、道長は不服だったようです。『栄花物語』によると「面白くない」と言って、中宮のもとには寄り付かなかったといいます。

道隆は、父・兼家が重篤であるにもかかわらず、娘・定子の立后を進めていたようで、世間からも「父上が重篤であるのに、なぜ、立后を延期されようとしないのか」と反感を買っていました。

道長が「立后とは何だ。面白くない」と言って、中宮・定子のもとに参上しなかったのには、道長の心中にも、そうした想いがあったからでしょう。道隆は、自らの野心を優先したと、人々から思われたのです。

翌年(991)2月には、円融上皇が病気を患い、崩御されます。上皇の女御の1人には、道長の姉・詮子がいました。その年の秋に、詮子は出家、東三条院と号するのです。

さて、藤原氏の氏長者となった道隆ですが、995年には亡くなってしまいます。

道隆が亡くなった原因

疫病が大流行しているときに亡くなったのですが、『大鏡』によると、道隆の死因は疫病によるものではなく、乱酒のせいだとあります。つまり、道隆は大酒飲みだったというのです。

「男は上戸」(酒が好きでたくさん飲める)などと言って、飲酒することを人生の楽しみの1つとしていたようですね。

賀茂祭の見物の際にも、酒がめを作らせて、それに酒を入れて飲みつつ、見物していたとのことなので、相当なものです。車のなかで見物していたのですが、飲めば飲むほど酔ってしまい、ついには、車の前後の簾をすべて巻き上げてしまいます。それだけではなく、烏帽子を外し、髻(もとどり)もあらわになってしまいました。


賀茂祭(葵祭)は現在でも京都三大祭りの1つとして開催(写真: Katsu / PIXTA)

当時、髻をあらわにするということは、大変恥ずかしいことと考えられていたので、『大鏡』にも道隆の様子を「見苦しい」と記されています。

ぐでんぐでんに酔い、前後不覚となった道隆。装束を乱し、人に介抱されながら、帰宅しました。迷惑と言えば迷惑、大胆と言えば大胆です。

弟・道長と兄・道隆の酒にまつわる逸話もあります。

関白が賀茂詣をするときは、社殿の前で土器に入った酒を3回勧めるのを例としていました。しかし、道隆が参詣するときは、神社側も心得たもので、大土器で7回、8回も酒を勧めたそうです。

そのため、上賀茂神社に参詣する途中で、道隆は早くも酔い潰れてしまいました。道隆は、仰向けに倒れて、前後不覚になり、眠ってしまったのです。

このとき、道長も賀茂詣をしていたのですが、兄・道隆が乗っている車を見ても、兄の姿が見えないことに気づきました。おかしいなと思いつつも、車は上賀茂神社の前に到着します。道隆が乗っている車も、神社前に着いたのですが、それでも道隆は酔って、眠ったまま。供の者も遠慮して、道隆を起こすことができなかったようです。

酒好きは生涯変わらなかった

道長もこのままにしておくのは、よくないと思ったのでしょう。「やぁ、やぁ」と声をかけたり、扇を鳴らしたりしますが、それでも兄は目を覚ましません。どうしようもないので、道隆に近寄り、彼の袴の裾を強く引っ張り、やっと起き出す有様でした。

普通は、泥酔状態から目覚めても、動作が鈍くなりますが、道隆は違いました。素早く、身づくろいして、車から降りたのです。それまで、酔い潰れていた人とは思えない素早さでした。

「そこが、道隆の上戸癖のよいところ」と『大鏡』はほめていますが、それほどほめられることかはどうかは疑問が残ります。

道隆の酒好きは終生変わらず、亡くなる間際まで、それを貫きます。道隆の病がいよいよ重くなり、臨終を迎える直前、周りにいた人々は、道隆の体を西向きにして「念仏を唱えてください」と勧めます。

すると道隆は「藤原済時・藤原朝光といった飲み友達が、極楽にいるだろうか」と言ったというのです(『大鏡』)。

死の間際まで、いや死んでからも、飲むことと、飲み友達のことを考えていたのでした。

これまで、道隆の醜態ばかりを述べてきましたが、いい面も述べておくと、彼の容姿は端麗だったといいます(『大鏡』)。

それは病になってからも変わらず、道隆はきれいで上品な姿だったというのです。「病のときこそ、このような容貌でいたいものだ」と臨終間際の道隆を見た人は感心したということです。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)