戦国時代に天気を利用して勝利をつかんだ名将の姿をご紹介します(写真:skipinof/PIXTA)

NHK総合サタデーウオッチ9の人気気象キャスターである久保井朝美さんは、大のお城好き。気象予報士になってからは、お城や歴史を見る視点に「天気」という専門性が加わり、新たな疑問や仮説が浮かんでくるようになったといいます。

久保井朝美著『城好き気象予報士とめぐる名城37 天気が変えた戦国・近世の城』より、今回は戦国時代に天気を利用して勝利をつかんだ名将の姿をご紹介します。

日本三大奇襲戦の1つ

桶狭間の戦い、河越の戦いとともに、日本三大奇襲戦といわれる「厳島の戦い」(源義経の一の谷の戦い〈鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかお)とし〉を含む説もあります)。

一般的に奇襲戦は、正面からぶつかったら敵わないであろう相手に対して、意表をついて攻撃することで勝機を見出すためにとる戦い方です。

1555(天文24)年10月1日の厳島の戦いでは、毛利元就(もとなり)が奇襲攻撃を仕掛けて、陶晴賢(すえはるかた)が率いる約5倍の軍勢に勝利しました。数の上では圧倒的に有利だったはずの陶軍はまともに応戦できず、その日のうちに陶晴賢は自害したのです。

元就は、息子たちに一族の結束の重要性を「三本の矢」に例えて説いたことなど、知将として知られています。

その元就が厳島の戦いに勝利できた背景には、荒天をも味方につけた知略がありました。

毛利元就VS陶晴賢

戦いの舞台は嚴島神社で有名な、広島県の厳島です。最前線となった毛利軍のお城は、宮島港のすぐ近く、要害山(ようがいさん)にある宮尾城(みやのおじょう)。

標高は約30メートルしかないものの、周辺は急峻で攻めにくいお城でした。また、現在は埋め立てられていますが、当時はもっと海に近くて、水軍の城でもありました。

厳島の戦いからさかのぼること4年、1551(天文20)年に陶晴賢(当時は陶隆房・すえたかふさ)は、主君の大内義隆に謀反を起こして、自害に追いこみました。大寧寺(たいねいじ)の変といわれるこの事件後、陶晴賢は大内義長(大友晴英)を擁立し、大内氏の実権を握ります。

大内氏に仕えていた元就は、大寧寺の変の後も陶晴賢と通じて勢力を拡大しましたが、次第に両者は対立しました。

今よりずっと水運が重要だった当時、水上交通の要衝だった厳島はお互いに抑えたい場所でした。

さらに、軍略に優れた元就は、狭い厳島であれば少ない軍勢でも勝機があるかもしれないと考えます。

元就は厳島を占拠して宮尾城を改修し、陶晴賢から元就に寝返った武将を置いて、挑発。ほかにも偽の噂を流したり書状を送ったり、陶晴賢を厳島におびき出す計略を巡らせたそうです。

そして1555(天文24)年9月21日、陶晴賢は約2万人の軍勢を率いて厳島に上陸し、宮尾城に攻め入りました。このとき毛利元就は不在でしたが、宮尾城を守っていた毛利軍は300〜500人ほどだったといわれています。

陶軍約2万人に対して、毛利軍はその後の援軍を含めて約4000人。

両軍の人数については諸説あるものの、圧倒的な差があったことには変わりありません。幸いにもこのとき宮尾城の落城は免れましたが、毛利軍がこの「差」を覆すには、奇襲するしかないと考えたのではないでしょうか。

奇襲前夜、台風襲来か

奇襲(10月1日)の前夜である9月30日、いよいよ毛利元就率いる毛利軍が厳島に渡ろうとすると、雨の降り方が強まってきました。雨だけでなく風も強く吹き、雷が轟き、大荒れの天気となったようです。

この時期の雨というと、秋雨前線ということも考えられますが、嵐のような様子だったのであれば、台風が接近していたのではないでしょうか。

厳島の戦いがあった日は、新暦で1555年10月16日です。今使われている平年値では、7月から10月にかけてが日本への台風の接近数や上陸数が多い時期です。

例えば、2004(平成16)年に100人近い死者を出した台風23号、2017(平成29)年に「超大型」で静岡県に上陸した台風21号、2019(令和元)年に長野県の千曲川(ちくまがわ)が決壊した「令和元年東日本台風」は、10月に日本に大きな被害をもたらしました。10 月の台風襲来は十分にあり得る話です。

厳島の戦いに話を戻します。9月30日の夜、毛利軍は厳島に上陸しました。暴風雨によって視界が悪く、渡航は大変だったはずですが、敵に気づかれにくかったのは元就にとってラッキーです。

一方の陶晴賢は、こんな大荒れの天気の中、毛利軍が攻めてくることはないだろうと思っていたのでしょう。

いよいよ10月1日、毛利本軍と小早川隆景(こばやかわたかかげ)が率いる別働隊が陶軍の本陣を挟み撃ちにしました。海では、毛利が味方につけた村上海賊(水軍)が陶水軍を攻撃して、船を焼き払います。

すっかり油断していた陶軍は驚きました。

『棚守房顕覚書(たなもりふさあきおぼえがき)』には、「陶、弘中ハ一矢モ射ズ、西山ヲサシテ引キ退ル」と、総崩れの様子が書かれています。狭い島内では陶軍のような大軍は動きづらく、混乱状態に陥りました。

形勢が不利になった陶晴賢は係留していた船で逃げることを考えて、島の西の大江浦(おおえのうら)という港に向かいます。しかし、船はそこにはありませんでした。村上海賊によって、あるいは暴風雨で破壊されてしまったのでしょうか。

追いこまれた陶晴賢は自害しました。勝利した元就はさらに勢力を拡大し、中国地方一の戦国大名になっていきます。

一方、陶晴賢は自害、大内氏は急速に衰退しました。のちに大内義長は自害させられ、大内氏は滅亡します。厳島の戦いが、それぞれの明暗を分けたといっても過言ではありません。

奇襲攻撃を10月1日にした理由

台風が元就の奇襲攻撃の味方をしたのは単なる偶然だったのでしょうか? 元就はこの時期に天気が荒れることを知っていて、好機を狙っていたのでしょうか? 

あるいは、情報網を張りめぐらせていて、厳島より先に天気が変わる地域から、暴風雨の知らせを受けていた可能性もあります。

知将として知られる元就であれば、嵐の"サイン"に気づいていたかもしれません。

海では台風が近づく前から波が高くなります。高波(波浪)には、その場で吹く風による「風浪」と、台風などの影響で離れた海域から伝わってくる「うねり」があり、両者は波長や周期が違います。

海を熟知して水先案内人として収入を得ていた村上海賊の中には、うねりが届き始めた段階で、次第に天気が荒れることを察知した人がいたのではないかと想像が膨らみます。 

そもそも奇襲攻撃を10月1日にした理由は、前夜が新月だったからという可能性があります。台風が来なくて晴れていたとしても、闇夜だったので、敵に気づかれないように厳島に上陸するには適していたのです。この点からも、元就あるいは村上海賊の天気や天体への関心の高さを感じます。

一方で、陶晴賢が天気にもっと意識を向けていて、その“サイン”に気づけていたら、歴史は変わっていたかもしれません。

台風はもともと「大風」

台風の歴史をひもとくと、平安時代の『源氏物語』や『枕草子』に「野分(のわき)」という言葉が使われています。野の草を分ける強い風ということで、現在の台風にあたると考えられます。


明治時代まで強風のことを「颶風(ぐふう)」と表現していました。日常用語としては「大風(おおかぜ・たいふう)」が一般的だったようです。明治時代末に、のちの中央気象台長で“気象学の父”と称される岡田武松が「颱風(たいふう)」と学術的に定義し、1946(昭和21)年に当用漢字が定められて「台風」になりました。

「猛烈な」「非常に強い」など台風の強さを表す表現、「超大型」「大型」という台風の大きさを表す表現の基準は、どちらも風です。

台風というと風だけでなく雨も強まりますが、背景を知ると、昔から台風といえば、強い風のことだったからかもしれないと推察できます。

広島県 宮尾城(特別史跡名勝/厳島全島)
広島県廿日市市宮島町厳島要害山
JR広島駅から宮島口駅へ(約30分)。JR宮島フェリーで宮島桟橋へ(約10分)。徒歩8分

(久保井 朝美 : キャスター、気象予報士、防災士)