花山天皇演じる本郷奏多さん(写真:大河ドラマ公式インスタより引用)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は花山天皇の出家の背景にある、藤原兼家親子の画策を紹介します。


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『大鏡』(平安時代後期に成立した歴史物語)は、藤原道長のことを豪胆な人物として描いています(過去記事:花山天皇も驚いた「藤原道長」の豪胆すぎる性格)。

『栄花物語』(平安時代後期の歴史物語)もまた、若き頃(20歳頃)の道長を「容姿や気性が男らしく、自らに心を寄せる者に目をかけて庇護し」と絶賛しています。

作者の道長に対する賛美の姿勢が強く、はたして、これが道長の真の姿だったかと言われたら、疑問が残るところですが、功成り名遂げた後に、賛美の言葉が出てくるというのは、今も昔も同じと言えましょう。

道長のライバルが先に出世

しかし、道長であれども、最初から他人を圧倒するほどの出世の仕方をしたわけではありません。

道長は、980年正月に従五位下に任じられます。「影を踏まないで、顔を踏みつけてやる」(『大鏡』)と道長が息巻いたライバルの藤原公任は、同年2月には正五位下に叙されて、昇殿(清涼殿の殿上の間に昇ること)まで許されていたため、道長よりも早く出世しました。

この出世は、公任の父・藤原頼忠が関白・太政大臣だったことが大きいでしょう(道長の父・藤原兼家は右大臣でした)。

兼家は娘(次女)の詮子を円融天皇の女御とし、詮子は980年に懐仁親王を生むことになります。984年、円融天皇は花山天皇に譲位したことから、懐仁親王は皇太子に立てられました。

ところが、その2年後(986年)の6月には、花山天皇が早くも退位・出家してしまうのでした。

その裏には、兼家とその三男・藤原道兼の画策があったと伝えられますが、寵愛していた女御・藤原忯子の急死を受けて、花山天皇自身も出家を考えられていたようです。

『大鏡』は、ご退位の夜のことを次のように記します。

花山天皇は藤壺(平安宮の内裏五舎の1つ)の上の御局の小戸からお出ましになりました。夜が明けかけてもいまだ空に残っている「有明の月」の光が容赦なく、天皇を照らし出しました。

道兼がなんとか出家させようと急かす

花山天皇は「月の光で姿が目立ってしまっている。どうしたらよいか」と仰せになったようですが、藤原道兼は次のように急き立てます。

「それでも、出家をお取りやめになられる理由はございません。なぜなら、神璽・宝剣も、すでに皇太子のもとにお渡りになってしまったからです」と。

道兼は、花山天皇が心変わりして宮中に戻ってしまっては大変だと、前もって、皇位の象徴とも言うべき、神璽・宝剣を皇太子方に勝手に渡していたのでした。


藤原道兼を演じる玉置玲央さん(写真:大河ドラマ公式インスタより引用)

輝く月にも、雲がかかり、辺りは少し暗くなってきました。花山天皇は「出家は成就するのだ」と仰せになり、歩みを進められます。

ところが、そのとき、花山天皇は、普段から肌身離さず持っていた忯子が書いた手紙をうっかり忘れたことを思い出し「しばし待て」と取りに帰ろうとされるのです。

それを見た道兼は、すかさず「どうして、そのように未練がましく思われるのですか」と告げます。そのうえで「この機会を逃せば、ご出家にも支障が出て参りましょう」と、泣きながらその言葉を投げかけるのです(とは言え、道兼は「嘘泣き」だったようですが)。

道兼は花山天皇と土御門大路を東へと向かい、宮中から連れ出すことに成功します。そして、そこには、陰陽師・安倍晴明の邸がありました。邸を通ったときに、安倍晴明の声が聞こえてきたそうです。

それは「天皇がご退位なさると思われる天空の異変があったが、すでにご退位は済んでしまったと思われる。宮中に参上して、奏上しよう。車の支度を早くしてくれ」というものでした。安倍晴明は手を何度も叩きながら、繰り返しこの言葉を述べていました。

安倍晴明の言葉を聞かれた花山天皇は、覚悟のうえの出家とは言え「あはれ」(深いしみじみとした感動)に思われたに違いないと『大鏡』は記します。

安倍晴明は先ほどの言葉に続けて「式神1人、宮中へ参上せよ」と言ったといいます。式神とは、陰陽師の命令で自在に動く鬼神、霊的存在のことです。

人の目には見えない式神が邸の戸を開けると、そこには花山天皇の後ろ姿がありました。式神は安倍晴明に「帝は、ただ今、邸の前をお通りになったようです」と報告したそうです。

安倍晴明の邸をすぎ、花山天皇は花山寺(元慶寺。京都市山科区)にお着きになりました。そしてそこで剃髪されることになるのです。

花山天皇が花山寺に入ったことを見届けた道兼は「私はいったん、退出いたします。父・兼家にも、帝の出家前の変わらぬお姿をもう一度見せたく思うのです。案内申して、必ずここに戻ってきましょう」と理由を付けて、天皇のもとを離れようとします。

その様子をご覧になった花山天皇は「朕(私)を騙したのだな」とはらはらと涙を流されたそうです。

道兼の裏切りを「おそろしい」と記す

花山天皇がこのように仰せになったのにも、理由がありました。

道兼は普段から、花山天皇に対し「帝がご出家されたら、弟子として仕えましょう」と言上していたのです。『大鏡』は、道兼の裏切りを「あはれに悲しきことなり」(とても悲しいこと)、「おそろしさよ」(恐ろしいこと)と書いています。

一方、道兼の父・兼家は、道兼が何者かによって、強制的に出家させられてしまうのではないかと案じていました。そこで「源氏の武者」を護衛として付けていたようです。

こうして、花山天皇は出家。懐仁親王が一条天皇として即位されます。兼家らは皇太子の即位を早めるために、花山天皇に出家を勧めて、謀略を用いて、退位させたのでした。

一条天皇は、道長にとっては甥にあたります。一条天皇の即位に伴い、道長は昇殿を許され、蔵人・少納言・左少将にも任命されていきます。位階も半年ほどの間に、従五位上、正五位下、従四位上とすすみ、翌年(987年)9月には、従三位に叙されることになるのです。

花山天皇の退位は、道長の出世にも大きく関わっていたのでした。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)