坂本幸雄(さかもと・ゆきお) 1947年生まれ。1970年日本体育大学卒業、日本テキサス・インスツルメンツ入社、1993年副社長。神戸製鋼所(情報エレクトロニクス本部副本部長)や日本ファウンドリー社長を経て、2002年エルピーダメモリ(現マイクロンメモリ ジャパン)社長。経営破綻に伴い2013年退社。紫光集団の高級副総裁・日本代表なども。2024年2月14日、心筋梗塞のため死去。享年76歳(撮影:尾形文繁)

「日本はまだKOはくらってません これからです 皆様の画期的な発相でもう一度 再出発です。坂本幸雄」(原文ママ)

2012年に経営破綻したDRAM専業メーカーのエルピーダメモリ(現マイクロンメモリ ジャパン)。2002年から2013年まで同社の社長を務めた坂本幸雄氏が2月14日、心筋梗塞のため死去した。76歳だった。

亡くなる前日の夕方まで、坂本氏とメールのやり取りをしていた東京理科大学大学院の若林秀樹教授は、「今年に入ってからも、日本の半導体政策について意見交換をさせていただいた。日本が半導体で盛り上がる中、坂本さんが亡くなったことに因縁を感じる」と惜しんだ。


坂本氏は、東京理科大学総合研究院技術経営戦略・金融工学社会実装研究部門の客員教授を2020年4月から2023年3月まで務めた。学生に送ったメッセージには日本への熱い思いが(提供:若林秀樹教授)

冒頭の坂本氏のメッセージは、東京理科大学大学院のMOT(経営学研究科技術経営専攻)の学生に対して送られたもの(右写真)。2020年から客員教授に就任、社会人学生に講義を行っていた。

倉庫番から副社長へ

日本体育大学を卒業後、アメリカの半導体メーカー、テキサス・インスツルメンツ(TI)の日本法人に入社した。「書類にJapan Physical Universityと書いたら、Physical(体育)をPhysics(物理)と勘違いされた」というエピソードは坂本氏の定番のジョークだった。

最初の仕事は倉庫番。そこから実力主義の外資系で頭角を現し、24歳で課長に就任して日本法人の副社長まで上り詰めた。その後、複数企業を渡り歩き、半導体業界では知る人ぞ知る人物となった。


2002年11月、エルピーダ社長に就任した(撮影:東洋経済写真部)

エルピーダは日立製作所とNECのDRAM事業を統合し1999年に発足。のちに三菱電機のDRAM事業も合流した「日の丸DRAMメーカー」だ。しかし、鳴り物入りで誕生したエルピーダだったが、出身母体3社のたすき掛け人事で意思決定は遅く、高コスト体質で赤字が続いてきた。

その流れを断ち切るため、2002年にプロ経営者として招聘されたのが坂本氏だった。経産省の当時の担当官は「総合電機出身の経営陣には、戦略も胆力もなかった。その点、坂本さんは規格外の経営者だった」と振り返る。

このよそ者に対して、エルピーダ役員陣は「坂本君は体育会系で勢いがあるよね」と語るなど、お手並み拝見といった雰囲気だった。坂本氏は当時を振り返り、「僕は一度もリストラをしたことはないが、副社長とかいらないから親会社に戻ってもらった。エンジニアやオペレーターを切ろうなんて夢にも思わない」と語っていた。「エルピーダは捨て子だった」とも漏らしていた。

いったんはエルピーダの黒字化に成功した坂本氏だったが、抜本的に立て直すことはできず赤字と黒字を繰り返すことになる。そうした厳しい環境下、エルピーダは2003年に約1700億円、2004年の株式上場時に1000億円を調達、広島工場へ果敢な設備投資を行った。並行して、台湾企業の買収や提携を進めるなど、攻めの戦略を繰り出していった。

半導体ビジネスには、好況と不況を繰り返すシリコンサイクルがある。メモリ最大手の韓国サムスン電子は、不況時でも巨額の設備投資を実施しシェアを拡大していた。坂本氏はこの勝負に何とかついていこうと必死だった。

危機の連続、ついに経営破綻

しかし、リーマンショック後の2009年3月期には1788億円の最終赤字を計上。この時は「産業活力再生特別措置法」を申請し、経産省のバックアップを受け、日本政策投資銀行への優先株発行で300億円を調達するなどして乗り切った。ただ、苦難はこれで終わりではなかった。

2011年の東日本大震災後、一時1ドル75円をつけた空前の円高でエルピーダの経営は火の車となった。当時、エルピーダの経営危機を懸念してアップルの担当者が来日し、政投銀に「DRAMは非常に重要。エルピーダをサポートしてほしい」と何度も要望したが「DRAMは日本に必要ない。韓国からでもどこからでも買える」とにべもない対応だったという。

坂本氏は資金調達のために毎週のように海外へ飛び回ったが、交渉はまとまる寸前で次々と頓挫。そして2012年2月27日、エルピーダは会社更生法の適用を申請した。負債総額は4480億円。

この時、坂本氏は取引金融機関にも更生法申請を悟らせず、直前には預金の一部を引き出すなどもした。このことで今も坂本氏を恨む関係者がいることは事実だが、坂本氏にとっては、エルピーダの事業を継続させるための窮余の策だった。エルピーダは2014年にマイクロン・テクノロジー傘下となり、旧エルピーダ・広島工場は今も日本で唯一のDRAM工場として稼働している。


2013年7月、エルピーダのスポンサーとしてマイクロン・テクノロジーと契約(撮影:梅谷修司)

経営者としてエルピーダの破綻を避けられなかったのだから、坂本氏に厳しい意見があるのは当然だ。一方、その手腕を評価する声も間違いなくある。

前出の経産省元担当官は「正直、エルピーダが10年以上も生き残るとは思っていなかった。マイクロン傘下になった今でも広島工場が稼働を続けているのは、間違いなく坂本さんの手腕」と称賛する。坂本氏はリストラせずに工場を存続させるため、ギリギリのタイミングで破綻の道を選んでいた。

日の丸半導体の復活を期す、ラピダスの東哲郎会長(東京エレクトロン元社長)は、坂本氏を「世界的な視点で動く破格の経営者。政府や銀行への依存度が低く、強靭な精神で長期的な目線で戦略を組み立てていた」と振り返る。

坂本氏は李克強に会っていた

近年、中国との関係を深めていたことも坂本氏への毀誉褒貶につながっている。

2019年、坂本氏は中国の李克強前首相(2023年に死去)に会っている。同年11月には中国・清華大学系の半導体企業、紫光集団の高級副総裁に就任し、日本代表となった。当時の坂本氏は72歳だったが「69歳で剣道を始め、毎朝300本から400本くらい素振りをしている。体力があって頭もしっかりしている。何らかの成果を出して自分の人生を終えたい」と語っていた。

紫光集団での坂本氏のミッションは、DRAM事業の立ち上げ。量産工場立ち上げに向けて奔走していたが、2021年に紫光集団が破綻して立ち消えとなった。

東京理科大の若林教授は「坂本さんはエルピーダ後、中国で日本人の半導体エンジニアが活躍できるよう尽力していた。紫光集団では、自分が描くDRAMビジネスも検証したかったのではないか」と振り返る。

ラピダスの東会長は、坂本氏の訃報を若林教授から聞いて冒頭の色紙の存在を知ったという。「衝撃的だった。彼はグローバル展開したり中国に行ったりしたけど、日本に対する思いは強烈にあったのだなと」と思いをはせる。

最近まで坂本氏は動き続けていた。2020年以降、日本政府は半導体の産業政策へ急速に舵を切っていった。コロナ禍での半導体のサプライチェーンの混乱や米中貿易摩擦を受けて、半導体を取り巻く環境は激変していた。坂本氏の手元には、海外で働く日本人の半導体シニアエンジニアのリストがあった。彼らの就職先を紹介したり、自身の経験を基に、アドバイスをしていたという。


リストラされた半導体エンジニアに活躍の場を提供したいと話していた(撮影:尾形文繁)

坂本氏は、「日本が唯一持っている資産は人間。リストラすると、残った人のモラルも落ちてしまう。日本はエンジニアの数が相当減っているからちゃんとしないと」と語っていた。その対象はエルピーダだけでなく、ルネサスエレクトロニクスやキオクシアなど、すべての半導体エンジニアに向けられていた。坂本氏は、どの会社で、どの立場でも、エンジニアを大切にするという信念を貫き続けた。

プレステの父が語る坂本氏

生前の坂本氏が、しばしば言及したのがソニー元副社長の久夛良木健氏だった。家庭用ゲーム機「プレイステーション」生みの親であり、マイクロプロセッサ「Cell(セル)」を開発した人物でもある。最後に久夛良木氏が寄せた弔文を掲載したい。

時代に遥かに先駆け、日本発の半導体ファウンドリーの実現に向け幾度となく挑戦を続けた坂本幸雄氏が旅立った。生粋の野武士でもあり、自らが先頭に立って闘い続ける姿は、往年の日本半導体の黄金時代の中にあって我が世の春を謳歌していた国内大手半導体経営陣からは異端の士と見られていたのだろう。

しかし、その後の国際的な半導体ファウンドリーの急進と日の丸半導体の凋落により、氏が見ていた未来の景色が奇しくも現実のものとなりつつある。私との最初の出会いは「プレイステーション2」の開発時に遡るが、半導体産業に向ける熱き想いは、それぞれが得意とするアプローチからではあったが見ている未来は重なり、その後折に触れて親交を重ねさせて頂いた。

当時の2人の対談が Wedge 2017年10月号に収録されている。類稀な挑戦者のご功績とご冥福を心からお祈りしたい。

(前田 佳子 : 東洋経済 記者)