白い恋人に似てる?「白い針葉樹」作る会社の挑戦
「白い針葉樹」は発売から40年以上のロングセラー商品(写真:筆者撮影)
サクサクのビスケットにチョコをはさんだ土産菓子の定番、ラングドシャといえば、北海道の銘菓「白い恋人」を真っ先に思い浮かべる人は多いだろう。
1976年の発売以来、48年のロングセラーを誇り、今や海外に向け日本を代表する土産菓子としての地位も築きつつある銘菓だ。そんな「白い恋人」と同じホワイトチョコのラングドシャに、「白い針葉樹」という名称の土産商品があることをご存じだろうか。この商品を手がけるのが、創業65年の長野県の老舗中堅企業、マツザワだ。
年間生産枚数は110万枚。北海道から沖縄まで、高速道路のサービスエリアや道の駅、ホテル、空港など全国各地に張り巡らされたマツザワ独自の販売網に乗って流通し、「白い恋人」に負けず劣らず、同社主力の人気商品として安定的な売り上げを保ち続けている。
マツザワの主力は「白い針葉樹」にとどまらない。グループ全体でラングドシャの工場を含む3つの自社工場、2つの提携工場のほか、366のOEM工場があり、取り扱う自社開発・企画開発の菓子・食品アイテム数は実に約1万2500点に上る。
浮き沈み激しい観光市場をどう生き延びたか
コロナ禍の3年間は、売上高がほぼ半減し、創業以来初の赤字に見舞われた。だが、300人超の従業員を維持したうえで、早くも2023年度にはコロナ前の水準へと売上高を戻し、2024年2月期のグループ売上高は135億円(前年比20%増)、最終利益も黒字に転換した。
この10年を振り返るだけでも、浮き沈みの激しい観光市場を舞台に、地方の土産菓子メーカーが事業を存続させていくのは至難の業だということは想像に難くない。マツザワはこの荒波をいかにして生き延びてきたのか。マツザワの商品開発と販路開拓の舞台裏を紹介する。
マツザワは1959年の創業。現在、2代目の代表を務めるのは、松澤徹社長(67)だ。都内の大学を卒業後、スーパーの西友で4年勤務した後マツザワに入社。創業者の父・泰氏から35歳で代表権を継いだ。2021年に亡くなった先代が起こした会社を徹社長はこう振り返る。
「父は戦前、学校にお弁当を持っていけないほど貧しい子供時代を過ごしたそうです。家業はいつもお金に困っていて、借り入れのほうが売り上げより多い。従業員の中に家族や親戚がたくさんいて、給料のほうが売り上げより多い。食わせていかなければいけない胃袋がたくさんあった。
経営が苦しかった分、人の苦労がよくわかっていたのだと思います。支払いは現金できっちりすることを守った人でした。それがマツザワの商売の信用を高めてくれたように思います」
マツザワの松澤徹社長(写真:筆者撮影)
商売の源流は、和傘の柄を支える「ろくろ」やこけしをつくり、地方の観光地などに卸していた、ものづくりと販路づくりにある。父が公務員を辞めて家業を受け継いで起業し、お菓子や漬物などを仕入れて観光地の小売店に販売する卸問屋から始めた。
ある時、百貨店向けに山ごぼうの味噌漬けをつくるメーカーが、不揃いのごぼうの両端をカットし大量にタンクに保管していることに目をつけた。それらを買い取って温泉宿などに土産品として卸したところ、よく売れ、大きな利益を上げたことが、現在のマツザワの事業の基礎になったという。廃棄に費用をかけていた漬物メーカーにも大いに喜ばれた。
小規模な菓子メーカー等をグループに組み込む
マツザワは現在、関東や北陸、中部地方を中心に15営業所を構える。それぞれの地域で特産品や土産品の企画開発・卸売事業を手がけるだけでなく、岐阜県内の道の駅「可児ッテ」を運営、小売業では「豆吉本舗」「十勝甘納豆本舗」「菓心たちばな」「甘味しゅり春秋」などの菓子店を展開し、長野県内で和食レストランやラーメン、そば屋の飲食店も経営するなど、事業形態は多岐にわたる。
特徴的なのは、その拠点の多くが、もともと地方各地で商売していた小規模な菓子メーカーや卸売会社が前身だということだ。地域の高齢化による人手不足や後継者不足、資金繰りの悪化など経営難に陥った会社の要請に応える形で、取引関係のあったマツザワが事業継続や立て直しをサポートし、グループ事業に組み込んでいった経緯がある。
そんなマツザワの主力商品の1つが、冒頭でも述べた「白い針葉樹」だ。ネットでは、たびたび「白い恋人」と「どちらが元祖か」とつぶやかれるこの商品は、「白い恋人」の発売から3年後、1979年に福島県の菓子メーカー不二屋食品が製造販売を始め、近郊のスキー場やバスセンターなどで販売されていた。
不二屋食品は2007年に経営破綻したのだが、当時、同社から商品を仕入れていたマツザワが不二屋から製造設備を買い取り、以来、素材や製法の改良を重ねながら商品の生産を継続してきた。経営難に陥った会社が大事にしてきた商品を、受け継ぎ守っていく。マツザワの経営姿勢がよく表れている。
もう1つ、マツザワの経営姿勢を象徴する、主力商品がある。
リンゴの生産過程で中心果を大きく育てるために切り落とされる「摘果リンゴ」を使ってつくる菓子商品「りんご乙女」だ。
薄くスライスした生のリンゴを生地に載せてプレス焼きで仕上げた薄焼きのクッキーで、新鮮なりんごの香りと甘酸っぱさが感じられる上品な風味が特徴だ。
摘果リンゴを使った土産菓子「りんご乙女」(写真提供:マツザワ)
1995年に発売した当初は、薄いクッキーの型に合う小さなサイズのリンゴを求め、山形の農家から市場に流通しない収穫期最後のリンゴを調達して使っていた。
お菓子に摘果リンゴの活用を検討
だが、商品が売れるようになると原料が不足するようになり、サイズの小さな摘果リンゴの活用を検討するようになった。
リンゴは1つの実を育てるために、少なくとも5つの幼果が切り落とされる。落ちた果実はそのまま畑に捨てられていた。松澤社長は、地元・飯田の摘果リンゴを活用できれば地場の土産商品として地域にも還元できると考えた。
「りんご乙女」の原料となる摘果リンゴ(写真:筆者撮影)
ところが、課題が立ちはだかる。摘果リンゴを食用として利用するには、農薬の散布時期を遅らせるなど栽培体系を変える必要があり、提供する農家にとって病害虫の被害を招きかねないリスクを抱えていた。手立てを探る中、2007年、実証実験に名乗りをあげる強力な助っ人が現れた。
20軒以上あった飯田の農家の中で、“ファーストペンギン“となったのは、北沢農園の北沢章さん。JAみなみ信州で農業指導員として働く傍ら、実家はリンゴ農家を営んでいた。
「まさか摘果リンゴが活用できるなんて思ってもみない提案でした。しかもかなりの量が必要だという。リンゴ農家は秋にならないと1年分の売上が入らない。捨てるものがお金になれば、画期的な取り組みになる。ぜひやってみたいと思いました」と北沢さんは振り返る。
摘果リンゴ活用の道を開いた北沢章さん(左)と妻・孝子さん(右)(写真:筆者撮影)
自身の果樹園を実験場にし、栽培方法の見直しを単独で引き受けた。工程の安全性を確かめながら防除基準をクリアさせ、徐々に賛同する農家を増やしていった。今では飯田地域を含む約50軒のリンゴ農家から、摘果リンゴを買い取る体制が整えられている。
注目すべきは、その買取価格だ。ジャムやジュースなどの加工用に使われるリンゴは1キロあたり20〜30円程度の相場で取引されるのに対し、マツザワは摘果リンゴを1キロあたり60円で購入している。しかも2023年からは資材高騰などを考慮し70円に引き上げ、昨年1年間で60トン超、425万円分を買い上げた。
かつて先代の父が山ごぼう漬けの端を集め土産品として命を吹き込んだのと同じように、松澤社長もまた、捨てられていた地域の素材を“財産”に変えた。
発売から今年で29年。「りんご乙女」は食品のミシュランガイドと称される欧州の国際味覚審査機構(iTQi)で16年連続三つ星を獲得する快挙を達成している。近年はアジアの観光客からも人気を集め、コロナ前の最盛期には1日最大6万枚を生産するほど、名実ともに産地を代表するロングセラーの土産品として成長した。
リンゴ生産農家を台風被害が襲う
北沢さんが、生産農家としてマツザワの存在の大きさに圧倒されたもう1つの忘れられない出来事がある。2022年9月、長野地方を襲った猛烈な台風14号が、収穫を間近に控えた北沢さんの農園の果樹400本をなぎ倒したのだ。実りが不十分で傷が多く、青果でも加工用でも売り物にはならない。愕然としながらも真っ先に頭に浮かんだのは、マツザワだった。
窮状を知って駆けつけたマツザワの取締役である田中久雄さんと森本康雄さんは、こう約束した。
「摘果リンゴと同じ条件で買い取らせていただきます」
落ちたリンゴは全部で6トンもの量に上った。買い取ったリンゴはそれからまもなく、新商品「りんごスティックパイ果の山」となって、各地の土産売り場を飾った。
北沢さん夫妻にとって、台風の被害は、経済的にも精神的にもつらい損失だったが、「商品開発や流通を担ってくれる、いざというときに駆けつけてくれるマツザワさんがいるから、また頑張ろうと思える」と語る。
昨年の秋、取材で訪れたその農園には、新しく植えられた若いリンゴの樹が一面に広がっていた。「産地」が守られ、続いていく。生きた事例が確かにそこにあった。
商品開発と合わせてマツザワが力を注ぐのが、山から海の向こう側へとつなぐトンネルを掘るような販路開拓だ。コロナ禍の間、全国各地の土産売り場が休業を余儀なくされる中、縮小するどころか、積極投資を仕掛けた地域がある。
那覇空港や、沖縄の百貨店でも販売
アジア向けの商品の「見本市」「出口」になることを見越して2017年に進出した沖縄だ。那覇空港国際線の保安検査場内で土産菓子を販売する店舗の営業権を取得し営業していたが、コロナ禍の始まりとほぼ同時に航空会社20社の週200便が全便停止となり、国際線の閉鎖期間は2年7カ月にも及んだ。
だが、各地の生産者やメーカーとつながるマツザワにとって、アジアにつながる沖縄の「城」を容易に手放すわけにはいかない。売り場従業員の雇用を守ったまま、追加資金を投じて店舗を拡張し、再始動に備えた。
那覇空港国際線搭乗ゲート前の土産店「しゅり春秋」ではマツザワが扱う全国の菓子商品を販売している(写真:筆者撮影)
沖縄への投資はこれだけにとどまらない。未開拓市場だった百貨店向けギフト市場への参入を決め、那覇市のデパートリウボウ内にあるケーキ店の買収に動いたのは2023年3月。長野産の青果を使った高価格帯のスイーツ商品の開発に乗り出し、さらに、デパート傘下のスーパー向けに高品質な旬のフルーツの卸販売も同時にスタートさせた。
これも、トンネルの先に出口を求める各地の生産者とメーカーの存在と、代々受け継がれた「地元の灯り」を絶やしてはならないという、松澤社長の精魂あってこその経営判断だ。
マツザワの工場や店舗がある地元・飯田エリアは、2027年以降にリニア中央新幹線の「長野駅」の開業が予定され、ヒト・モノの交流が飛躍的に増大することが予想される。さらに、飯田が位置する南信州地域は全国の長寿上位を占め、長野県の中で最も高齢化率が高い一方で、高齢者の就業率がトップクラスという特異な地域でもある。
これからを担う人材の育成が課題
これと同様に、マツザワの社員の平均年齢は44歳を超え「ベテラン勢」が主力を担う。土産品からギフト商品まで取引先と顧客層の幅が広がり、旬や行事のカレンダーが異なる地域へと拠点が拡大する中、企画・開発から広報活動まで対応力ある人材をいかに育てていくかが、大きな課題となる。
対話力と再現力、そして柔軟性ある担い手を育成しようと、松澤社長は社内研修を欠かさず実施し「学び舎」としての社風づくりに余念がない。
「商品をつくり、人をつくり、産地を守り育てる」ことは、過去から受け継いだものを次世代へとつなぎ、残していくことに通じる。
マツザワが耕してきた道には、その足跡がしっかりと刻まれ、次の一歩につなげようとする、企業本来の営みの原型がある。
観光産業が日本経済の柱になろうとする中、地方メーカーの連帯が全体の競争力を支える土台となる。その代表格としてのマツザワの今後の奮闘は、注目に値する。
(座安 あきの : POLESTAR OKINAWA GATEWAY取締役、広報戦略支援室長)