結婚をするもしないも、全て個人の選択です(写真:Fast&Slow / PIXTA)

恋愛も結婚も未婚も離婚も、今は「個人」が選ぶべき時代。選べる時代。選ばなくてはならない時代です__。

そう話すのは、「パラサイト・シングル」や「婚活」などの言葉を作り出し、家族社会学の第一人者として知られる山田昌弘・中央大学教授。

多様な結婚・家庭生活のカタチが尊重されるようになった現代はどのような時代なのか。山田教授の著書『パラサイト難婚社会』から紐解いてみましょう。

「離婚」「別居」に「卒婚」も

比較的最近出てきた概念として、「卒婚」というものがあります。

結婚生活を営み、月日が経ち、恋愛感情も関係性も薄れてきた。しかし、だからといって、「離婚」や「別居」という選択肢も違う。

表面上は「結婚」状態を維持しながらも、互いの拘束性を解消し、それぞれガールフレンドやボーイフレンドと恋愛しても構わないという形での「卒婚」です。

私の周囲でもチラホラ「卒婚」のワードが出始めていますし、人生相談ではこんなケースもありました。

その男性は奥さんが浮気をし、浮気相手と別れる気がないので、いったんは「離婚」を話し合いましたが、まだ幼い子どものことを考え「離婚」は先送りにする決断をしたそうです。

結果的に、「結婚」は解消しないものの、妻とその彼氏の交際を認め、子の成長を待つという結論に至ったそうです(読売新聞朝刊2022年8月19日付)。

もっとも両者が「卒婚」に完全同意しているならばいざ知らず、片方は悶々としながら、「自分も浮気をすればいいのか」と悩むのは少々痛々しいものがあります。

このように、「結婚」の内実は多様化してきており、夫婦(カップル・パートナー)が選べる「選択肢」が増えているのが今の時代です。言い換えれば、個々人が、極めて多様な人生の選択肢から、「自分の人生」を選び取らなくてはならなくなった時代だとも言えるのです。

大学(短大・高校)を卒業して、就職・結婚・家庭生活・定年退職・定年後の生活と、一種のベルトコンベアのような「人生」に流れていけばよかった時代から、進学も就職も結婚生活すらも多様になった時代へ。

人々は常に「選び」続けなくてはならなくなりました。待っていても「結婚」は訪れず、積極的に友人に紹介を頼んだり、婚活パーティに参加したり、結婚相談所に登録しなくてはならなくなりました。

結婚後も、「寿退社して主婦業に専念」がデフォルトでなくなった以上、「子どもを持つのか(持たないのか)」「仕事は辞めるのか(辞めないのか)」「子どもは1人なのか(複数なのか)」「結婚生活を続けるのか(離婚するのか)」など、人生の各ステージで常に「選択」が待ち構えており、自分の意思で選び取らなくてはならなくなったのです。


(画像:『パラサイト難婚社会』)

これを「個人化の時代」と定義することができます。

「個人の自由」はストレスにもなる

「個人化」とは、人々の個人主義が極まった、ワガママな状態とは異なります。社会学で言うところの「個人化」とは、あらゆる物事(結婚するかしないか、離婚するかしないか、卒婚するかしないかなど)について、「選択が個人に委ねられた状態」のことです。

地域コミュニティや親戚が「あなたはこの人と結婚しなさい」と強制したりする(あるいは、勧めてくれる)こともなく、結婚しようが、未婚だろうが、離婚しようが、社会的サンクション(制裁)が下りるわけではない。

あらゆることが「個人の意思」に委ねられた結果、人々は「自分で選ばなくてはならない」状態に恒常的に晒されるようになったのです。それは一見、喜ばしいことのように思えますが、実はかなりの心的ストレスを生じさせることも明らかになっています。

例えば、自分が同性愛者であることをカミングアウトするかしないかも、現代社会では「個人の選択」に委ねられます。半世紀ほど前は、欧米では「病気」や「犯罪」として取り締まる状況もあったので、「隠し通す」面がありました。

しかし今は、そうした性的マイノリティに関するすべてのことも、決定や判断、選択肢は「個人の自由」に委ねられています。葛藤する心のうちを、誰に、どこまで、どんな手段で、どんなタイミングで告知するか、個々人が悩み、一つひとつ決断を下す必要が生じています。

同様に、半世紀前は「男は仕事、女は家事育児」が基本形で、多くの人、特に男性は悩む必要もなかった「結婚生活」も、今は「専業主婦(夫)か、パートやアルバイトで働くか、正規雇用で働くか」など、多様な選択肢が考えられます。

それはつまり、夫と妻で、両親と義理の両親で、親戚や友人とで、それぞれ思い描く「結婚後の生活」に大きな齟齬が生じやすく、トラブルや諍(いさか)いも生まれやすくなったと言えるのです。

夫の側は「妻は結婚したら家庭に入り専業主婦になるのが当然」と思っているのに、妻は「女性も一人前に働くのが当然」と考えているかもしれません(最近は、逆のケースが増えているようですが)。

夫の両親は「嫁が介護をするのが当然」と思っているが、妻の両親は、「老後は介護施設が妥当」と思っているかもしれないのです。

「正解」が一つではなくなった時代、人々は常に「取捨選択」を迫られ、「周囲とのすり合わせ」や「自分の納得感」に対して、努力が求められるようになりました。 そうした現代に生まれ育った世代を、私は「個人化ネイティブ世代」と名付けています。

揺らぐ「結婚」の定義

「結婚(生活)」が多様化してきた背景には、インターネット社会の発展もあります。

かつてなら、同性愛の人が恋愛相手を探すのは相当な手間暇がかかったものです。ある特定の人々が集う場や環境に行かなければ、恋愛対象者も見つけられません。

それは「友情結婚」や「卒婚」なども同じです。そうした情報が外から入手可能になったからこそ、名前が付き、人々が選択できる(選択しなければいけない)ようになってきたのです。

これまでの社会では、人は自分の生きている半径数百メートルの関係性から、「結婚」「家庭」「子育て」に関する情報の多くを取得し、その価値観に大きな影響を受けてきました。

「親戚の〇〇お姉ちゃんは24歳で結婚したから私も、それくらいで結婚するのが妥当」「近所の△△お兄ちゃんは高卒で就職し、5年後にお見合い結婚したから、自分もそういうふうになるのかな」といった周囲の人々の経験や価値観から導き出されるロールモデルと、自分の思い描く結婚観に大きな違いがなければ、問題は起こりません。

先達である彼らを見習い、自分も同様の「結婚」を目指せばいいわけですから。

ネット社会は人々を救う可能性も

しかし、そうでない場合は、なかなかつらい状況が発生します。

周囲が全員異性愛者(と見える状況)なのに、自分が同性愛者であると自覚していたり、周囲が「恋愛から結婚」を当然のものとしているのに、自分だけはその価値観に同意できなかったり。


コミュニティの中に、自分と同じ性的指向や悩みを持つ人がいなければ、その人は孤立し、悩み、苦悩し、心を病んでいくかもしれません。それは「自分らしい選択をできない」孤独感でもあるでしょう。

ネット社会はその制限に風穴を開け、空間を飛び越えて、より多様な情報を取得する手段、人々が出会う機会を増幅させました。

自分の生きるコミュニティとは異なる価値観もこの世にあるのを知ることができ、さらには同じ価値観を持つ人と出会い、コミュニケーションすることで救われた人も多かったはずです。

その意味では、ネット社会は人々を救う可能性もあるわけで、今後さらに「結婚」の形が多様化していく可能性も十分にあります。

(山田 昌弘 : 中央大学 文学部 教授)