「不適切〜」中盤での急転直下でこれから起こる事
ドラマの展開がこれまでと大きく変わるとともに、視聴率にも変化が起きたという(画像:金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』番組公式ホームページより)
金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS金曜よる10時〜 脚本:宮藤官九郎)の世帯視聴率が上がった。第4話の6.7%から第5話では8.3%へと上がり方も大きい(関東地区)。
いまどき世帯視聴率は指針にならないとはいえ、数字が上がったことはポジティブな現象にほかならない。なぜ上がったのか。それはドラマが大きく動きはじめたからだろう。予定調和からの逸脱、そこに大きな驚きがあった。1995年の阪神・淡路大震災が物語に大きく関わっていたのである。
突如としてリアルな現実を突きつけた
1986年と2024年の時代差を描き、80年代カルチャーの数々で郷愁をくすぐり、昨今の厳しいコンプライアンスに対する疑問を呈して共感性を高めながら、毎回、唐突なミュージカルシーンを挿入し、それらを次第に定着させてきた『不適切にもほどがある!』。
第5話ではヒューマンドラマの様相に(画像:「不適切にもほどがある!」公式インスタグラムより)
登場人物のキャラが立っていて好感度が高く、心地よく見ていたところ、第5話では、いつものように笑っていたら、突如としてリアルな現実を突きつけてきて、ヒューマンドラマの様相に。そこには全然、不適切じゃない驚き、そして、哀しみを伴った感動のようなものがあり、視聴者は鷲掴みにされたのだ。
第1話で、犬島渚(仲里依紗)の母が1995年阪神・淡路の年に亡くなったと語られたとき、おそらく、あの出来事が描かれるであろうとSNSでは予想されていた。というのは、宮藤官九郎がかつて、朝ドラ『あまちゃん』(2013年)で東日本大震災をデリケートに描いていたからだ。
2011年に起きた東日本大震災の2年後に放送された『あまちゃん』は、宮藤が宮城県出身ということもあり、震災から2年が経過した東北を応援するという意味合いももっていた。基本、笑いの成分の多い内容だったが、終盤、主人公アキ(能年玲奈 現:のん)の親友・ユイ(橋本愛)が憧れの東京にいよいよ向かった日、列車のなかで地震が起きる。東京で彼女を待っていたアキはつながらないケータイに不安を募らせて……。
海女とアイドルを目指すアキと彼女を取り巻くおもしろおかしな人々の楽しいドラマと思って毎朝見ていたら、現実を突きつけられて、息もできないような気持ちになったものだ。そして『不適切〜』でもまた――。
「空白」の38年間に何が
ドラマで描かれた阪神・淡路大震災の日を少し長くなるが、振り返ってみる。第4話の終わりに出てきた犬島ゆずる(古田新太)が、小川市郎(阿部サダヲ)のことを「お父さん」と呼ぶ。彼は小川の愛娘・純子(河合優実)の夫で、渚の父だった。つまり、渚は小川の孫であったのだ。ややこしい。
タイムスリップものなので、1986年から来た小川のほうが若々しくて、2024年のゆずるのほうが老けている。1986年から2024年にタイムスリップしている小川は、1987年から2023年までが空白である。
ゆずるとの話で、純子は女子大生になったとき、ディスコで黒服のゆずる(若い時代は錦戸亮)と出会い、結婚を考えるようになったこと、小川はそれを認めなかったこと、でもやがて心を開いた瞬間があったことを、小川は知る。それが1995年1月17日の早朝であった。
例えるなら『シックス・センス』(1999年)的驚き。それまで、ドラマの中で叫ばれてきた不適切な問題なんて吹っ飛ぶような展開に、鬼の首をとったようにドラマの不適切な問題点を指摘していた者は、己の首をすくめたのではないだろうか。
コメディ作家という印象の強かった宮藤官九郎が『あまちゃん』以降、社会派なものも描けるという認識が広がって、その後、大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019年)でオリンピックを題材に昭和史に挑んだ。これには賛否両論があったがそれはさておく。『いだてん』では関東大震災が描かれ、『あまちゃん』『いだてん』『不適切〜』は宮藤官九郎の震災3部作と呼ぶ声もSNSであった。
宮藤がディズニープラスで企画、脚本、監督した『季節のない街』(2023年、原作:山本周五郎)は震災とは明言せず、「ナニ」と呼ばれるある出来事によって12年もの間、仮設住宅で暮らすことを余儀なくされた人たちの物語で、これはかなり社会派感の強い作品である(でも登場人物のおもしろさにフォーカスされている)。
また、宮藤は『木更津キャッツアイ』シリーズ(2002年)や『俺の家の話』(2021年)などで“死”というものを何度も描いている。死をどういうふうに捉えるか、従来の手つきとは違う角度で描こうとトライしてきた作家である。
関東大震災も阪神・淡路も、それ以外にも熊本地震や直近では能登半島地震もあって、どこかで誰かが災害の被害に遭っている。そこで失ったものははかりしれない。私たちはそれぞれの喪失に思いを致さなくてはならない。そういう意味では、次第に遠い記憶になりかかっている阪神・淡路大震災について、30年の節目に改めて振り返ることも大切なことだろう。
自分の「運命」を知った小川はこれから?
もはや視聴者の興味は、1995年に起こることを知ってしまった小川がこれからどうするだろうかということだ。未来を事前に知ることができれば、悲しい出来事を回避することができるのではないか。でもそうしたら、いろんなことが変わってしまう。それが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)をはじめとしたSFでおなじみのタイムパラドックスだ。
自分たちだけ助かればいいというわけではないし、それでも大事な人を救うことは不適切ではないはずーーなどとドラマを見ながら妄想はどんどん膨らむわけだが、宮藤官九郎はきっと斜め上の展開を用意しているに違いない。
例えば、第1話で、渚(仲里依紗)の母が1995年阪神・淡路の年に亡くなったと語られたとき、1986年の小川は「ありがとう覚えとく」と言っていた。とすれば、この時点で歴史はすでに変わっているのではないか。
そこで思い浮かぶのは、1983年に大ヒットした大林宣彦監督の『時をかける少女』である。
『不敵切〜』の第1話で、純子が「『狙われた学園』とか『時をかける少女』に出てた」と尾美としのりの話題を出していた(『ねらわれた学園』には実際は出ていない)。『不適切〜』では『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がフィーチャーされているが、80年代SFだったら『時かけ』も外せない。
『時かけ』の主人公の芳山和子(原田知世)はタイムリープ能力が備わり、地震が起こることを事前に知るエピソードがある。そのとき、彼女は同級生のゴロちゃん(尾美としのり)の元へと向かい……。
宮藤は悲劇とどう対峙するのか
『不適切〜』の第5話では「土曜の午後」「土曜の午後」と八嶋智人が言っていたが、『時かけ』では「土曜日の実験室」がキーワードであった。そして、『時かけ』が公開された年、日本海中部地震があったのだ。
いつの時代でもどこでも、悲しい出来事は起こっている。年々、悲しい出来事が積み重なっていくばかりで途方に暮れるし、災いを事前に知ったらきっと誰もがタイムパラドックスなんて無視するだろう。宮藤官九郎はいま、どうやって人類に課せられた大いなる問題に対峙するのだろうか。どんなふうに飛翔してくれるのか期待は高まるばかりだ。
ところで、古田新太は、いるだけで作品の格が上がる名優なので、老けた息子の奇妙なおかしさを倍増させていた。とりわけ、1995年のゆずる(錦戸)と、2024年のゆずる(古田)が、歌いながら義父のスーツを仕立てる場面は、しっとりしたいい場面だった。
第4話までは、ミュージカルシーンは、ともすれば説教くさくも感じる社会へのメッセージを歌と踊り仕立てにすることで、親しみやすいものになっていたが、第5話ではメッセージ性はなりを潜め、ただ、生真面目に、義父のためにスーツを仕立てる男の思いの歌なのである。
仕立て屋になりたてのゆずるが一所懸命、1つひとつ工程を確認しながら作っていく。そして、30年後のゆずるは、熟練の腕前になっている。同じ歌に新人から熟練への時間の経過が滲むという、見事な脚本。筆者はここに、ひたむき丁寧に作ることの尊さを感じた。
時代の価値観によってよいとされたり不適切とされたりするのではない、まわりが変わってもけっして変わらないことはあるのだと。小川の体型が1986年と1995年で変わっていなくて、スーツがぴったりであったように。
「ふてほど」が問いかけていること
誤解をおそれずに言えば、宮藤官九郎はきっとデビューから変わっていない。もちろん、年齢とキャリアが上がるとともにスキルは上がるし、視野も広がり、その都度、興味をもつ題材も変わるだろう。落語や歌舞伎、ゆとり世代など、いろいろなものを取り入れてきた。けれど、本質はきっと変わっていない。
バイクで疾走するような速度と熱量と情報量の密度の濃さ、最高におもしろいものを作ろうとする気持ちや、10代のときに好きで影響を受けたものなどが、彼を形成していて、人間とは存外そういうもので、そんなところが共感されるゆえんではないだろうか。『不適切にもほどがある!』はその人にとって、誰に何を言われようと、大事なもの、守りたいものは何ですか?と問いかけているような気がしている。
(木俣 冬 : コラムニスト)