「裸になって向き合った」ハンセン病回復者の人生
©︎Office Kumagai 2023
「人間にとって普遍的なことを描いたつもりだ」――。
戦争や炭鉱事故など数々の社会問題を取り上げてきた映像ジャーナリスト兼映画監督の熊谷博子氏が初めてハンセン病回復者の人生に伴走したドキュメンタリー映画「かづゑ的」が、2024年3月2日から東京・ポレポレ東中野ほか全国で公開される。
ハンセン病問題は、およそ90年にわたる国の誤った隔離政策により、いまだに回復者や家族への差別や偏見が残る。この作品では、瀬戸内海にある国立療養所「長島愛生園」に10歳で入所し、以後80年以上をこの島で生きてきた宮粼かづゑさんの日常を8年の歳月をかけて撮影。カメラは入浴する場面まで捉えた。
かづゑさんは、患者同士のいじめという「差別の中の差別」を受け、絶望から死を考えたこともあったが、そこからたくましく這い上がる。右足を膝下から切断し、左足の先もなく、手の指はすべてない。視力もほとんど残っていない。だが、こう言う。「できるんよ、やろうと思えば」。
さまざまな試練から逃げずに生きてきた、この大きなエネルギーの源は何なのか。また、マスコミの取材をほとんど断ってきたかづゑさんが、今回なぜ熊谷氏のアプローチを受け入れ、入浴まで撮らせたのか。
大きな声でカラッと笑いながら、時折、目に鋭い光がのぞく熊谷氏。人を包み込む温かさと、真実を見逃さない強さの両面を併せ持つ。「心を裸にして向き合った」と語る熊谷氏に、撮影の動機や撮影手法について尋ねた。
――これまで戦下のアフガニスタンや原爆の被爆者、炭鉱事故といった社会問題に目を向けてこられました。今回、ハンセン病の回復者を撮ろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
2015年頃、信頼している知人から「どうしてもあなたに会わせたい人がいる」と言われ、そこで初めて宮粼かづゑさんのことを知った。
彼女が84歳の時に出版した『長い道』という本がある。これを読んだ時の衝撃は大きかった。ハンセン病回復者が書く本は、差別のひどさに重きを置くものだと思っていたが、かづゑさんは、いかに自分が家族に愛されて育ったかに重きを置いていた。
初めて対面した時、「この人は絶対に撮っておかないといけない」と確信した。翌2016年から、長島愛生園に通い始めた。
波長が合った
――回復者の中には差別や偏見をおそれ、顔を出すことに強い不安を感じる方がいまだに多くいます。撮影の許可を得るにあたり、難しさはありましたか。
あっけらかんとした感じで了承してくれた。波長が合ったのだと思う。知人を通して頼んだ時、かづゑさんは「あの人ならいいわ」という一言だったと後から聞いた。マスコミの取材はほとんど受けない方として知られていたが、私はハンセン病問題については素人。知識や思い込みがないという点が、かづゑさんには安心できたのかもしれない。
――映画では、かづゑさんが療養所内のスーパーに電動カートで買い物に行ったり、夫の孝行さんと部屋で過ごしたりという日常生活を描いています。お風呂に入る場面では体をさらけ出していますが、ハンセン病回復者の方でここまで見せるのはまれなことではないでしょうか。
ハンセン病回復者が入浴する場面を撮った作品は、これまでなかったのではないか。撮影の初日、かづゑさんから私たちスタッフに「明日入浴だから撮ってね」と申し出があった。「えー!」と仰天したが、生身の人間として捉えてくれるだろうと考えてくれたのかもしれない。
介護スタッフたちも協力的で、浴場にカメラが入っても、いつもと変わらない自然体で受け入れてくれた。
熊谷博子(くまがい・ひろこ) 映像ジャーナリスト/ 映画監督 東京都出身。番組制作会社を経てフリーの映像ジャーナリストに。アフガニスタンで映画『よみがえれ カレーズ』(1989)を土本典昭氏と共同監督。『三池〜終わらない炭鉱の物語』(2005)で日本ジャーナリスト会議特別賞、日本映画復興奨励賞等を受賞。NHK・ETV特集『三池を抱きしめる女たち』(2013)で放送文化基金賞・最優秀賞、地方の時代映像祭奨励賞を受賞。映画『作兵衛さんと日本を掘る』(2018)では筑豊の炭坑夫、山本作兵衛を通してこの国の変わらない労働と差別の構造を描いた。著書に『むかし原発 いま炭鉱』(2012)など(撮影/大月えり奈)
映画が完成した後、かづゑさんに見てもらった時に「どこが一番良かった?」と聞いたら、「お風呂のシーンが良かった」と。ありのままを見せられたという思いと、見なきゃわかんないでしょうという極めてシンプルな理由からだろう。
彼女は「いい格好していては本物は出ない、裏と表がないと本物ではない」と、よく語っていた。だから撮影期間中は「熊谷さん、ちゃんと裏も撮れた?嫌なところも撮れている?」としょっちゅう尋ねてきた。
「かづゑ的」としか言い表せなかった
――長い年月をかけて撮影した熊谷監督から見て、かづゑさんはどんな人でしょうか。
あの前向きさ加減は唯一無二。映画のタイトルは宮粼かづゑさんという人物を一言で言い表しうる言葉を探してみたのだが、「かづゑ的」としか言いようがなかった。
かづゑさんから「できない」という言葉は、本質的なところでは聞いたことがない。眼鏡をかけてほしいとか車椅子に乗せてとか、ちょっとしたことを周りに頼んだりはするけれど、自分でできるよう諦めずに工夫する。一緒にいると、足が不自由なことや手の指がないことを忘れてしまうほどだった。
――映画の中では、愛する人たちとの別れや過去の回想でかづゑさんが泣くシーンが出てきます。慟哭と言えるほどの場面もありました。それほどまでに近い距離で接し続け、見えたことはありますか。
彼女は前向きに生きてきた一方、悩むところは深く悩んできた。ハンセン病患者は社会のあらゆる場面で差別されてきたが、かづゑさんは10代の後半で療養所内でのいじめ、「差別の中の差別」に遭っている。50代に入ってからは長い間うつ状態にも陥った。
そこからどうやって脱したか。支えになったのは、肉親や夫からもらった「愛情の貯金」と、膨大な読書量から得た、その時その時を生き抜く「知識」だ。
かづゑさんの人生の背後にはハンセン病がある。だが、ハンセン病だけではない。映画では、かづゑさんの生き方を通して、人間が生きていくために大切なことは何かという普遍的なテーマに迫ったつもりだ。
――映画の中で、かづゑさんはまったく壁を作っていないように見えます。どうすれば相手に壁を作らせずに撮影できるのでしょうか。
私には映画作りの3原則がある。.薀屮譽拭爾鮟颪、気持ちのうえで相手に裸になってもらうために、自分も裸になる、テーマ全体についてきちんと勉強する。
「あなたが好きだ」、「撮りたい」という気持ちをまっすぐに伝え、そして自分自身も“裸”になる。勉強をして知識を得て、大事なことに気付けるようにしておく。これらを心がければ大体うまくいく。
熊谷監督(左)と、娘で助監督を務めた土井かやのさん(撮影/大月えり奈)
撮影中は、質問を頭で考えるというより、相手が口にした言葉に反射的に返せたほうがいいと思っている。飛んできたボールをいかに返すかは「映像的運動神経」を駆使する。そのほうが、自分のイメージに当てはめた作品を作るより、予想外のものができて面白い。
かつて水泳の飛び込みをしていた。だから私には、とりあえず飛び込んでみる習性がある。理屈ではなく、皮膚感覚的な部分で、「とりあえずやってみよう」と。
「かづゑ的」も、そういう心構えで撮ったつもりだ。
(大月 えり奈 : ルポライター)