第10回高校生直木賞候補作 窪美澄『夜に星を放つ』(文藝春秋)

体を信じる物語

 本というのは不思議なもので、ただの文字の羅列でしかないのに、読んでいるうちに、自分の体が痛みに近い感覚を持ったり(もちろん実際には感じないのだけれど、その直前までいくような感覚がある)、鼻先に香りが漂ったり、何かに指が触れたときの感触が再現されることがしばしばある。また、それを非常にうまく描く作家というのがいる。

 視覚的なイメージをうまく描く人は多いけれど、読み手の五感すべてをコントロールしてしまう作家というのは非常に稀な存在だ。デビュー当時からその作品を読んできて、ああ、この人の本には心だけではなく、感覚すべてももっていかれてしまう、と怖れに近い思いを持っている作家がいる。彩瀬まるさんだ。彼女のいちばん新しい短編集『花に埋もれる』(新潮社)には、彩瀬まるという作家にしか使いこなせない魔法が満ちあふれている。彼女にしか持ち得ない身体感覚、皮膚感覚というのは、ほかの誰にも似ていない。

 私の年齢からはもうはるか遠いけれど、自分の体がめきめきと変わる時期というのが人間にはある。主に10代のその時期、自分の体が自分でないような感覚を持ったことはないだろうか。その違和感。自分の体がなんだかわけがわからないけれど嫌だ、というあの感覚。体すっぽり脱ぎすてたいと思うほどの嫌悪感。これは彩瀬さんに直接聞いたわけではないけれど、彼女はその感覚に非常に真摯に向き合ったのではないか、という予感がある。その時間があったからこそ、彼女の今の作品世界が存在するのだろう。とはいえ、彩瀬まるの作品世界は、体を否定するものではまったくない。彼女の作品のなかで、登場人物は毛穴から出てきた芽を摘んだり、体の中から石を取り出したりするけれど、どこかそれが心地いいのだ。現実にはありえない世界を描いていながら、その根底には、人間を信じる、というとてつもない肯定感が満ちあふれているような気がする。人間はどこか変わってはいるけれど、それでもまったく問題ありません。彩瀬さんはそんなことを全力で描いている。自分の体が嫌い、なんとなく違和感がある、という若い方にこそ、ぜひ読んでいただきたい。

「オール讀物」2023年7月号より転載