松田聖子はファンの前で号泣絶叫、神田正輝は激ヤセ→休養…沙也加さん三回忌まで元夫婦の憔悴奮闘
《2年の月日が経ちました。貴方の歌声は、この世で感動を与え続けています》
《沙也加さんが亡くなられて、2年目のクリスマスがやってきます。いまだにクリスマスの日が近くなると、沙也加さんを思い出し、冬の夜空で涙をひたすら流し続けています…》
Instagramのコメント欄に綴られた、切実な思いの丈を綴った言葉たち。これは神田沙也加さんのInstagramの最新投稿に寄せられたものの一部で、連日このように言葉を贈るファンが後を絶たない。
12月18日、神田沙也加さんがこの世を去ってから2年が経った。あまりにも突然の訃報には日本中が言葉を失い、悲しみに包まれたが、誰よりも悲痛な思いを抱えたのは、両親である松田聖子(61)と神田正輝(72)だろう。
2人はアイドルと俳優としてトップの人気を誇っていた1985年に電撃結婚し、翌年には沙也加さんが誕生。’97年に離婚するも、聖子は“芸能界の先輩歌手”として、神田は“良き相談相手”として、それぞれ別の場所からその活躍を見守り、支え続けてきた。そうした甲斐もあって、18年に演劇界の栄誉である菊田一夫演劇賞を受賞するなど、着実にキャリアを重ねてきた沙也加さんだったが、わずか35歳で人生の幕を閉じることとなった。
沙也加さんが亡くなった3日後の’21年12月21日に、北海道で葬儀が行われた後、斎場で囲み取材に応じた聖子と神田。神田は別れを報告した上で、「2人ともあまり話せる状態ではないので、そっとしておいていただければと思います」と涙ながらに語り、聖子は位牌を抱えながら、「本当にみなさんお寒い中、申し訳ございませんでした。ありがとうございます」と語るに留めていた。
それから2年、聖子と神田はそれぞれの場所で、愛しの娘を失った悲しみとの苦闘を続けてきた――。
沙也加さんの訃報後、聖子は当時予定していたディナーショーや『第72回NHK紅白歌合戦』への出場など、一切の芸能活動を休止。自宅から外出できない日々が続いたが、’22年1月末に神田とともに夫の菩提寺で四十九日法要を営むと、3月には中止したディナーショーの振替公演と6月からの全国ツアー開催を発表した。
徐々に活動を再開させていく聖子だったが、その裏では引き裂かれる思いを抱えていたようだ。
「活動再開に際して配布されたファンクラブの会報誌のなかで、聖子さんは“今でも信じられない思いが”“もう前に進めないと思った”と告白。また、時間がある時には沙也加さんとの思い出が詰まった場所を訪れたり、生前愛用していたハンドミラーを受け継いで使うなど、深い悲しみの中でもがきながら再び表舞台に戻っていったのです(音楽関係者)
そんな思いがこぼれ出てしまうことも。昨年11月に都内で開催された自身が初監督を務めた映画の特別上映回に登壇した聖子。上映終了後にはトークショーも行われたのだが、その中で、『天国はお花畑があって、とても良いところだと思うんです。だから、ヒロインも沙也加も幸せにしているんだ』と涙をつまらせ、最後には『沙也加に会いたい!』と泣き崩れてしまったことを本誌は報じている。
その後も、ディナーショーやツアーは毎年開催し、ファンのためにステージにあがり続ける聖子。今年9月上旬、本誌は都内のコーヒーショップで仕事の打ち合わせを終えた聖子の姿を目撃したが、これまでより少し痩せた印象だった。
いっぽうの神田も聖子と同じく気丈に活動を続けてきた。長年『朝だ!生です旅サラダ』(ABCテレビ・テレビ朝日系)のMCを務めているが、沙也加さんが亡くなった翌週の’21年12月25日放送回にいつも通り出演。悲しむ素振りをおくびにも出さず、MCとしての務めを完璧に果たしたのだ。その後も、『旅サラダ』を休むことはなく、昨年3月に開催された番組イベントにも出席した。
しかし、そんな神田も寄る年波には勝てないようで……。
「『下町ロケット』(18年・TBS系)への出演以来、神田さんは俳優活動をしていませんが、周囲には“セリフが覚えられない”と吐露。オファーも断っていたといいます」(テレビ局関係者)
“異変”も囁かれはじめる。『旅サラダ』には休むことなく出演していた神田だが、今年4月ごろから、頬がこけ、白髪が急激に増えた姿で出演しはじめ、SNS上では“大丈夫?”“病気なのでは”と心配する声が相次ぐことに。そして、11月18日放送回では「体のメンテナンス」を理由に欠席し、12月2日放送回ではしばらく休むことがアナウンスされた。長期の休業が予想され、一部では、深刻な体調不安も報じられている。
憔悴しながらも、自身の務めを全うしてきた聖子と神田。2人の歩みを沙也加さんも見守っていることだろう。