当事者が振り返る2005年の日本シリーズ

【第4戦】ロッテ3-2阪神

ロッテ・清水直行(5)

(清水氏の証言4:「藤川球児のフォークも余裕をもって見逃せた」 ロッテが第3戦も大勝できた理由>>)

 ロッテと阪神が相まみえた2005年の日本シリーズ。結果は4勝0敗とロッテが圧倒して日本一に輝き、4戦の合計スコア「33−4」という言葉がインターネット上で生まれ、多くの野球ファンの間に広まるなど記憶に残る日本シリーズになった。

 同年、それぞれのチームのリーグ優勝に貢献した清水直行氏(元ロッテ)、関本賢太郎氏(元阪神)が、当時の状況や心境をそれぞれの立場で振り返る短期連載。清水氏のエピソード第5回は、日本一になる直前のロッテのベンチの雰囲気、ボビー・バレンタイン監督が作り上げたチームカラーについて聞いた。


2005年日本シリーズ第4戦に勝利して日本一になり、胴上げされるバレンタイン監督

【日本一目前でも全選手が座ったままだった】

――第4戦は、この日本シリーズで初めてロースコアの展開になりました。

清水直行(以下:清水) そうですね。ただ、それまでの3試合も、終盤にロッテがビッグイニングを作って突き放していますが、中盤までは接戦でした。なので、どの試合も楽に勝てた印象は残っていません。

――2回表に李承菀(イ・スンヨプ)の2ランで4試合連続の先制点を奪い、4回表にも李承菀がタイムリーを放って3−0に。しかし6回裏に、2番手の小野晋吾さんが今岡真訪(当時の登録名は今岡誠)さんと代打の桧山進次郎さんにタイムリーを打たれて1点差まで詰め寄られました。

清水 阪神打線のキーマンだった今岡さん、桧山さんに打たれたのでちょっと嫌な感じでした。6回裏に先発の(ダン・)セラフィニが(アンディ・)シーツにヒットを打たれ、金本知憲さんに四球を与えて小野に代わったのですが、その小野も打たれた。ここは嫌な流れだったのですが、続くピンチで矢野燿大さんを併殺に打ち取れたのが非常に大きかったです。

 このピンチをしのぎ、残りの7、8、9回をリードした状態でYFK(薮田安彦、藤田宗一、小林雅英)につなぐことができましたから。点差は1点でしたが、3人とも被安打0のほぼ完璧なピッチング。9回に登板した雅さんはシリーズ初登板でしたが、よく抑えてくれました。先頭打者にストレートの四球を出した時はドキッとしましたけど(笑)。

――その場面は、ソフトバンクとのプレーオフ第3戦が一瞬頭をよぎりましたか?(リーグ優勝に王手をかけて臨んだプレーオフ第3戦。4点リードの9回に小林雅が登板するも土壇場で追いつかれ、延長10回にサヨナラ負け)

清水 よぎりましたよ(笑)。ただ、僕らはあのプレーオフ第3戦でソフトバンクにひっくり返されたことで、"免疫"がついたんです。なので、ドキッとはしましたが、僕らにとってはそれほどきつくなかったですね。

――無死一塁となって甲子園は沸きましたが、続く矢野さんの送りバントがサードの今江敏晃さんへの小フライとなって、飛び出していたランナーも刺してダブルプレーになりました。

清水 大きかったですね。ただ、それでも「これでいける」という気持ちにはならなかった。このとき、全選手がベンチに座ったままだったはずです。あとひとり、あと一球で日本一が決まる場面ともなれば、前のめりになったり、総立ちになっていてもおかしくはないのですが。

――それもやはり、ソフトバンクとのプレーオフの影響ですか?

清水 そうなんです。プレーオフ第3戦で4点リードして最終回を迎えた時は、みんなけっこう前のめりになって飛び出す準備をしていましたから。ただ、4点差をひっくり返された時、「やっぱり野球は9回3アウトを取るまでわからないな」と痛感させられたんです。

 だから、この日本シリーズの最後もそうですし、リーグ優勝を決めたプレーオフ第5戦の最後の局面でもみんな座っていたはず。アウトのコールがあってから、みんなで飛び出してワーッと騒いだと思います。終わってみれば「日本シリーズを楽しめた。勝ててよかった」という気持ちになりましたが、最後の最後まで気を抜けなかったことはよく覚えています。

【ボビー・バレンタインが作ったチームカラー】

――この日本シリーズについて、阪神の関本さんにもいろいろお話をお聞きしましたが、「若い西岡剛と今江の2人をどんどん乗せてしまったのが痛かった。2人は試合を楽しんでいるように見えたし、ものすごく勢いがあって手がつけられなかった」と話していました。

清水 当時のロッテのチームカラーじゃないですかね。選手が伸び伸びプレーでき、力を発揮できる環境をボビー(・バレンタイン監督)が作ってくれていましたから。野球界だけでなく、どこの社会でも同じだと思うのですが、昔は威圧的な上司や先輩がいて、若手が臆してしまう環境が多かった。

 ただ、今はどこの球団を見ても、若い選手たちが萎縮せず、自分の力をしっかりと出せるような環境になっています。指導者も含めて、「ガラッと変わったな」という感じがすごくするんです。ボビーが2度目のロッテ監督に就任した2004年、この日本シリーズがあった2005年くらいから環境が変わり始めた気がしていて。この時のロッテのチームカラーは、その走りだったんじゃないかなと思います。

 当時、剛やゴリ(今江敏晃の愛称)が「伸び伸びやらせてもらえたのは、先輩たちのおかげ」とコメントをしていたように、僕らもあまり後輩に対してどうこう言わなくなっていました。若手が先輩に遠慮せずにやれる環境ができつつある時代でしたね。

――プレーオフ、日本シリーズを制し、この年からスタートした交流戦でもロッテは初代王者になりました。短期決戦に強い印象がありましたが、何が要因だったと思いますか?

清水 ボビーの引き出しの多さです。日本シリーズでも毎試合スタメンや打順が違っていましたよね。選手のコンディションや調子の良し悪し、相手との相性など、さまざまなデータも踏まえてのことだと思いますが、ボビー自身が信じることを突き通すので、僕らはそれに従ってやるだけ。だから、「俺たちは短期決戦に強い」といった意識はまったくなかったですよ。

 短期決戦の強さは、決断力によるところが大きいと思います。決断が後手に回ると取り返しがつかなくなりますが、ボビーはそのあたりの決断が早い。もっと言えば、その時その時の決断ではなく、早くから決断の準備を整えていたのかもしれませんね。

――バレンタイン監督は、例えば小林雅さんが打たれても「自分とマサの間には信頼関係がある」といったように、選手への信頼を度々口にしていましたね。

清水 野球は団体スポーツですし、結局はそこなんじゃないかなと思います。いろいろなデータがあったり、サポートしてくれるコーチがいたりしますが、最後に決断するのは監督ですし、監督がそこにいる選手たちをどういう感情で送り出すのか。

 結果として、それがうまくいってもいかなくても、信頼関係は変わりません。ボビーは、「そういう選択をした監督の責任なんだから、思い切ってやってくれ。打たれても抑えても、君に対する信頼は変わらない」と、そういう話し方をしてくれるんです。やはりチームというものは、監督と選手の信頼関係が強くないとうまくいかないんだなと。ボビーとは6年間一緒に戦いましたが、それをすごく感じましたね。

(阪神・関本氏の証言5:2005年日本シリーズ完敗の要因を紐解く 痛感した短期決戦の怖さ>>)

【プロフィール】
清水直行(しみず・なおゆき)

1975年11月24日に京都府京都市に生まれ、兵庫県西宮市で育つ。社会人・東芝府中から、1999年のドラフトで逆指名によりロッテに入団。長く先発ローテーションの核として活躍した。日本代表としては2004年のアテネ五輪で銅メダルを獲得し、2006年の第1回WBC(ワールド・ベースボールクラシック)の優勝に貢献。2009年にトレードでDeNAに移籍し、2014年に現役を引退。通算成績は294試合登板105勝100敗。引退後はニュージーランドで野球連盟のGM補佐、ジュニア代表チームの監督を務めたほか、2019年には沖縄初のプロ球団「琉球ブルーオーシャンズ」の初代監督に就任した。