8月31日、JFLの沖縄SVに所属する元日本代表FW高原直泰(44歳)が、今季限りでの現役引退を発表している。

 高原はいわゆる「黄金世代」のストライカーとして、小野伸二、稲本潤一、小笠原満男らと日本のサッカーを引っ張ってきた。1998年に入団したジュビロ磐田では2002年にMVP、得点王となり優勝に貢献。ドイツに渡り、ハンブルガーで4シーズン実績を積んだ。日本代表では57試合に出場し、23得点。2006年ドイツW杯直前のドイツ戦での2得点は語り草となっている。フランクフルトでは2006−07シーズンに二桁得点を記録し、欧州挑戦で成功した日本人FWの先駆けとなった。

 ただ、それを境にキャリアは低迷した。

 2008年、電撃的に浦和レッズへ移籍したものの不振で、代表からも遠ざかった。その後は水原三星、清水エスパルス、東京ヴェルディ、SC相模原とカテゴリーを下げていく。しかし、他の黄金世代の面々が次々にスパイクを脱ぐなか、県リーグ3部だった沖縄SVで再スタートし、JFLまで昇格させた。

 なぜ、高原はストライカーとして25年以上もピッチに立ち続けられたのか?


2006年W杯直前、日本代表のドイツ戦で2ゴールを決めた高原直泰

 2006年4月、筆者はドイツ・ハンブルクに高原を訪ね、じっくりとインタビューしている。

 当時の高原は鋭い目つきで、野性味に満ちていた。欧州ではアジア人FWを侮る風潮が根強く残っていて、得点を重ねても「スシボンバー」と、ジョーク交じりの異名が冠せられることになった。彼はその不当さに対して怒っていたし、実力でねじ伏せよう、という覇気を放っていた。

「こっち(海外)に実際に来てやらないと、本当の厳しさはわからないから。それを乗り越える価値はありますよ。"負けねぇぞ"っていう気持ちが湧きあがってくるから」

 高原はそう語っていたが、当時は孤高の精神で道を切り拓く必要があった。まだ日本人プレーヤーの価値は認められていなかった。なかでも日本人ストライカーは「日本人FWは脆く、ゴールの意識も低い」と、偏見に晒されていたのだ。

 高原自身、当初はトップで起用されていない。大柄なだけのFWが優遇される一方で、サイドアタッカーやサイドハーフで使われ、辛酸をなめていた。生き残るには、たとえどのポジションであってもゴールで実力を証明し、ストライカーの称号を勝ち取るしかなかった。

【不屈の闘志でゴールを決めた】

「日本のFWがこっち(海外)のFWと比べて、能力的に劣っていることはないですよ。たしかに多少はこっちのFWのほうがフィジカルは強い。けど、それは慣れれば日本人にもできる。それよりも、今までこう動けばこうと出ていたボールが、突然出てこなくなる。その辺をしっかり主張しなければならないし、その意味でのコミュニケーションの難しさはあって、偏見もあるから、(海外でのプレーは)そこをうまくやるかどうかなんですけど」

 高原がドイツで6シーズンも足跡を残せたのは、粘り強い闘争のおかげだったと言えるだろう。

 そもそも、高原には"困難に立ち向かう"力があった。たとえば2002年日韓W杯は、直前に肺動脈血栓塞栓症を患い、棒に振ることになったが、それも人生の糧にしていた。

「"自国開催のW杯はもう人生でないんだな"とは思いましたよ。メンバーから外れたことについては病気のこともあったし、冷静に受け止められましたけど。"W杯に出場してヨーロッパに行く"と自分なりにイメージを描いていたんで、それが崩れてしまって、何をしたらいいのか......。答えは、"Jリーグでストライカーとして爆発すること"でした。

 でも、復帰に向けてはコンタクトプレーができなくて。血液をさらさらにする治療をしていたから、たとえば打撲でも血が流れすぎて危ない。だから、ひたすら走って筋トレして、病気前よりもパワーアップして戻ってやると。それで最初のゴールをした時、自分の中で何か弾けて、おかげで(得点王となり)欧州移籍ができました。そういう形で代表から外れたからこそ、それをバネに頑張れたとも思っているんですよ」

 44歳まで現役を続けられたのも、きっと同じ理屈だろう。多くのクラブを渡り歩いたが、必ずシーズン中にゴールを決めている。不屈の闘志でゴールをすることで、踏みとどまってきたのだ。

――あなたにとって、ゴールとは?

 そう質問を投げた時、当時の彼はスラスラと答えてみせた。

「ゴールは存在を証明するものですね。ゴールをしないと自分を示せない。ゴールをすることで自分を知ってもらうというか、自分の道標になる。そう考えるようになったのは、アルゼンチンに行ってからですかね(2001年、ボカ・ジュニオルスに所属)。たった半年でしたけど、やっぱりFWはゴールをしなきゃ、と思うようになりました。日本にいた頃から"FWはゴールをしないと次はない"と言っていたけど、それを実感するようになりましたね」

 彼が刻んだゴールの軌跡は、道を作った。今のドイツ、ブンデスリーガで多くの日本人選手が活躍できているのは、高原や長谷部誠がその道を開拓したおかげだろう。先駆者の功績は決して消えることはない。

「子どもの頃からゴールすることしか考えていなかったです」

 そう語っていたストライカー、高原の長い物語がまもなく幕を閉じる。