当事者が振り返る2005年の日本シリーズ

【第1戦】ロッテ10−1阪神

阪神・関本賢太郎(2)

(第1回:33−4で敗戦した阪神は「調整が難しかった、は言い訳になる」>>)

 ロッテと阪神が相まみえた2005年の日本シリーズ。結果は4勝0敗とロッテが圧倒して日本一に輝き、4戦の合計スコア「33−4」という言葉がインターネット上で生まれ、多くの野球ファンの間に広まるなど記憶に残る日本シリーズになった。

 同年、それぞれのチームのリーグ優勝に貢献した清水直行氏(元ロッテ)、関本賢太郎氏(元阪神)が、当時の状況や心境をそれぞれの立場で振り返る短期連載。関本氏に聞く第2回は、第1戦で勝負を分けたポイント、マークしていたバッター、日本シリーズ史上初の「濃霧コールド」について語ってもらった。


2005年の日本シリーズ初戦、1回裏にロッテの今江敏晃(右)にホームランを許した阪神の先発・井川慶

【勝負を分けたポイントは「5回裏」】

――2005年の日本シリーズ第1戦、関本さんは出場機会がありませんでしたが、ベンチからどのように見ていたか伺えたらと思います。1回表、阪神は先頭の赤星憲広さんが四球で出塁するも鳥谷さんは三振。3番のアンディ・シーツのヒットで1死一・二塁のチャンスとなるも4番の金本知憲さんが併殺で無得点。この試合で先発したロッテの清水直行さんは、その併殺打から「乗っていけた」と話していました。

関本賢太郎(以下:関本) 立ち上がりですし、ピンチを併殺でしのげたら当然勢いに乗っていくと思います。出塁した赤星さんがスタートを切った時に、鳥谷がスイングしてファウルになった場面があったんですが、そこでスイングしなかった場合も、それ以降の展開は変わっていたはずです。

 結果はファウルでしたが、相手バッテリーに対して「赤星がスタートを切ってもバッターは打ってくるんだ」という意識づけができますし、ストライクを簡単に取りにくくなる。それと、清水さんはクイックが遅いピッチャーではないので、鳥谷が振らなくても赤星さんが盗塁を成功させていたかどうかもわかりませんしね。

 ただ、足のあるトップバッターの赤星さんが出塁し、その後スコアリングポジションにランナーを背負いながらも、キーマンの金本さんを打ち取ってゼロに抑えたというのは、ロッテからすればよかったと思います。

――ロッテは初回のピンチをしのぎ、その裏に今江敏晃さんのソロホームランで先制します。初回の攻防は明暗が分かれる形となりました。

関本 ロッテが主導権を握る形になりましたが、阪神は5回表に藤本敦士さんの犠牲フライで1−1の同点に追いついています。勝負のポイントになったのは、初回の攻防ではなく、阪神が同点に追いついた直後の5回裏のロッテの攻撃だったと思います。

――5回裏、ロッテは今江さんとサブローさんのタイムリーで3点を勝ち越しました。

関本 やっと同点に追いつき、流れが阪神に少し傾きかけたところで、それをすぐに手放すことになってしまった。ここからがワンサイドゲームの始まりですし......。ここをゼロに抑えていたら、この試合のみならず、シリーズ全体の展開も変わっていたかもしれません。シリーズ4試合を通じて、1度も阪神がリードすることができなかったわけですから。ここでしょうね、ポイントは。

――ちなみに、清水さんのピッチングに対してはどんな印象を持っていましたか?

関本 交流戦で対戦していましたが、「コンビネーションがいいピッチャー」という印象でした。コントロールもいいので、インサイドをどんどん突いていくことができて、高低や左右という点も意識づけさせることができる。初戦にはもってこいのピッチャーですよ。ロッテには清水さんのほかにも、ふた桁勝っているピッチャーが多くいましたが、"相手バッターへの意識づけ"という意味で清水さんが第1戦の先発だったんでしょう。 

 それと、日本シリーズでは"シリーズ男"とか"逆シリーズ男"などと言われる選手が出てきますよね。特に「この選手に打たれたらロッテ打線を乗せてしまうな」という選手が、若手だった西岡剛や今江、4番のサブローさんなどだったんですが、打たれてはいけなかった選手全員に第1戦で打たれてしまった。

 あと、里崎智也さんや李承菀、ベニー(・アグバヤニ)にはホームランを打たれましたしね......。ベンチで見ていても、ロッテ打線がどんどん勢いづいていることを感じていましたし、打ち出すと止まらない印象がありました。

――確かに、この年のロッテ打線は勢いがありました。阪神としても、西岡さんや今江さんはマークしていた?

関本 "勢いの象徴"という感じでしたからね。初戦を落としたのも痛いのですが、相手のポイントになる選手に火をつけて負けてしまったのが痛かったです。特に今江は、8打席連続安打の日本シリーズ記録を作りましたし、止められませんでしたね。

【「とうとう気象条件にも見放されたか」】

――第1戦は試合中に発生した濃霧で試合が30分以上中断し、結果的には日本シリーズ史上初の「濃霧コールド」という事態になりました。阪神ベンチからはどう見えていましたか?

関本 僕らのベンチは三塁側で、正面に見えるライトスタンドの屋根の上から濃い霧がなだれ込んでくるのが見えたんです。どんどん流れ込んできていて、雲海みたいでした。1−10と大差をつけられている試合展開で、「とうとう気象条件にも見放されたか」という感じでした(笑)。

 ただ、霧で試合がコールドになることは予想していませんでした。試合当日の天気予報でも霧が出るといった情報は見ませんでしたし。少しでも予報があれば心の準備ができたのですが......いずれにせよ、試合展開と合わせて二重のダメージでした。

――日本シリーズ史上初の出来事でしたし、濃霧コールドはさすがに想定外ですよね。

関本 試合が続行になっても逆転は難しい状況だったと思いますけど、「こういう終わり方になるんだ......」とベンチから見ていました。ただ、まだ1試合が終わっただけでしたし、僕らとしてはすぐに気持ちを切り替えようとしていました。

――次の試合に向け、気持ちはすぐに切り替えられた?

関本 そうですね。2003年のダイエー(現ソフトバンク)との日本シリーズも、福岡で2連敗のスタートだったので。その後に甲子園に戻ってきて3連勝し、再度福岡に乗り込んでから連敗して3勝4敗で負けてしまいましたが......。

 その経験があるので、ビジターで勝つことの難しさは重々承知していましたし、「第3戦目でホームに戻ればアドバンテージがある」という気持ちもあった。チーム全体が「次の試合(第2戦)に勝って甲子園に帰ろう」と、気持ちをうまく切り替えられていた気がしますね。

(清水氏の証言3:ボビー流・ロッテ「日替わり打線」が爆発  「俺も、俺も」と乗せられた>>)

【プロフィール】
関本賢太郎(せきもと・けんたろう)

1978年8月26日生まれ、奈良県出身。天理高校3年時に夏の甲子園大会に出場。1996年のドラフト2位で阪神タイガースに指名され、4年目の2000年に1軍初出場。2004年には2番打者として定着し、打率.316の高打率を記録した。2007年には804連続守備機会無失策のセ・リーグ新記録を樹立。2010年以降は勝負強さを買われ代打の神様として勝負所で起用される。2015年限りで現役を引退後、解説者などで活躍している。通算1272試合に出場、807安打、48本塁打、312打点。