当事者が振り返る2005年の日本シリーズ

ロッテ:清水直行(1)

 ロッテと阪神が相まみえた2005年の日本シリーズ。ロッテはボビー・バレンタイン監督、阪神は現在の指揮官でもある岡田彰布監督の両名将が指揮を執り、戦力も互角かと見られていたが......結果は4勝0敗とロッテが圧倒して日本一に。4戦の合計スコア「33−4」という言葉がインターネット上で生まれ、多くの野球ファンの間に広まるなど記憶に残る日本シリーズになった。

 同年、それぞれのチームのリーグ優勝に貢献した清水直行氏(元ロッテ)、関本賢太郎氏(元阪神)が、当時の状況や心境をそれぞれの立場で振り返る短期連載がスタート。清水氏に聞くエピソードの第1回。当時のロッテの特長、プレーオフから日本シリーズに臨むまでのチームの雰囲気などを語った。


阪神との2005年日本シリーズ第1戦に先発したロッテの清水

【当時のロッテは「バランスがよかった」】

――2005年のロッテは9年連続Bクラスから脱却し、31年ぶりのリーグ優勝(※)と日本一を達成しました。チームの強みは何でしたか?

(※)勝率1位はソフトバンク(ロッテは勝率2位)だったが、2004年〜2006年までのパ・リーグでは、プレーオフ第2ステージに勝利したチームを「リーグ優勝チーム」とした。2005年のロッテは第1ステージで西武を、第2ステージでソフトバンクを破った。

清水直行(以下:清水) チームとして何かが飛び抜けて優れていたというよりも、投打のバランスのいいチームでした。6人の先発ピッチャーがふた桁勝利を挙げ、リリーフもYFK(薮田安彦、藤田宗一、小林雅英)を中心に盤石。野手も剛(西岡剛)や今江(敏晃)ら若い選手が台頭し始めた時で勢いがありました。ボビーも、データを駆使しながら日替わり打線を組んだり、機動力も積極的に使ったりしていましたね。

――猛打賞をマークした選手が翌日の試合でベンチスタートというケースもありましたが、出場機会を得た選手が見事に活躍していましたね。

清水 そういう意味では、ボビーの要求にコーチや選手が柔軟に対応できていたことが一番の強みだったと言えるかもしれません。

 あと、これはどの球団も同じだと思いますが、実績があるベテランや前年に結果を出した選手に対しては、指揮官も起用の面で気を遣いがちになるもの。しかしボビーは勝つためのプランを遂行することに徹していましたし、選手全員がボビーの起用の意図を理解していたと思います。

【「お祭りを楽しむような気持ち」で日本シリーズへ】

――チーム得点(740点)、チーム打率(.282)、チーム出塁率(.347)、チーム盗塁数(101個)などはリーグトップ。打ち出すととまらない打線でビッグイニングもよく作っていました。

清水 投手目線からしても、先制点を取られてもすぐに打線が逆転してくれる雰囲気がありました。早い回に点を取ってくれることも多かったですし、少なくとも3、4点は取ってくれるだろうと。なので、「1点も取られたらいけない。打たれちゃダメだ」といったプレッシャーを、必要以上に感じることもありませんでした。

――プレーオフ第2ステージのソフトバンク戦は最終戦の第5戦までもつれ、日本シリーズまで中4日しかありませんでしたね。

清水 そうですね。逆に当時のセ・リーグにはプレーオフがなく、阪神はリーグ優勝を決めてから日本シリーズまで約3週間空きました。日程が詰まっているのも大変ですが、その期間の過ごし方は難しかったでしょうし、阪神にとっては少し不利だったと思います。

――ロッテはプレーオフで勝った勢いそのままに、日本シリーズに臨めた?

清水 チームの勢いは、小林雅さんがやられた時に1度止まっていますけどね(プレーオフ第3戦、4点リードの9回に小林雅が登板するも土壇場で追いつかれ、延長10回にサヨナラ負け)。

 第1ステージは千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)で西武と戦い、大輔(松坂大輔)と西口(文也)さんに勝って福岡ヤフードーム(現福岡PayPayドーム)に乗り込んだ。そして杉内(俊哉)と斉藤(和巳)を相手に連勝して、リーグ優勝に王手をかけて「あとひとつ勝てば」という試合で、4点差をひっくり返されて負けてしまったんです。

 ソフトバンクを勢いづかせてしまって第4戦も負け、結局は第5戦まで戦うことになった。ただ、苦しいプレーオフを勝ちきったことでまたいい雰囲気になりましたし、すんなりと第3戦で優勝を決めて日本シリーズまでの期間が長くなっていたら、チームの勢いは少し違っていたかもしれません。

――結果的に、中4日で日本シリーズに臨めたのが功を奏したということでしょうか?

清水 プレーオフは非常にハードな試合が続きましたから、それを勝った熱量は中4日では衰えず、お祭りを楽しむような気持ちで日本シリーズに臨めました。しかも31年ぶりの日本シリーズが本拠地からスタートでしたし、プレッシャーはなかったです。

【ボビー流、勝つためのチーム管理】

――逆に言えば、リーグ優勝の余韻に浸る時間がなかったんですね。

清水 みんなが優勝を経験したことがなかったですし、チームとしても31年ぶりの優勝ともなると、何をしていいのかわからないんです(笑)。すぐに日本シリーズに向けた準備をしなければなりませんでしたし、あまり羽目を外すこともなかったです。

 それと、気持ちを切り替える訓練はシーズン中からできていたと思います。ボビーが定期的に休みを入れてくれて、野球に向かう時とリフレッシュする時の「オン・オフ」の大切さを選手たちも肌で感じていましたから。

 ボビーは(2004年に2度目の)ロッテの監督に就任してから、キャンプ中やオープン戦、シーズン中も「勝負は9月と10月。そこで勝つために、チームを管理していけるかが大切だ」とずっと言い続けていました。普段の練習もそこまで長くやらず、「練習で疲れずに試合で疲れてくれ」と。ボビーが選手たちをうまく管理していたと思います。

――この年の日本シリーズは、両チームの監督の合意に基づき、7年ぶりに「予告先発」が採用されました。相手投手によって打線を入れ替えていたロッテにとっては好都合だった?

清水 そうですね。第1戦の阪神は左腕の井川(慶)が先発だったので、2番に今江、5番にサト(里崎智也)と右打者を入れましたね。シーズン中もボビーは打線をコロコロ入れ替えていましたが、「このタイプの左ピッチャーにはこの選手を当てる」といったプランがあったと思います。

――清水さんは日本シリーズ第1戦の先発を務めましたが、それを告げられたのはいつでしたか?

清水 ソフトバンクとのプレーオフが終わったくらいのタイミングで、「日本シリーズの頭で行くぞ」と。この年はシーズンの開幕戦も、交流戦の開幕戦も投げさせてもらった。節目節目でそういう役割を任せてもらえたのは、僕の野球人生において大きな刺激になりました。

(阪神・関本賢太郎のエピソード1:33−4で敗戦「調整が難しかった、は言い訳になる」>>)

【プロフィール】
清水直行(しみず・なおゆき)

1975年11月24日に京都府京都市に生まれ、兵庫県西宮市で育つ。社会人・東芝府中から、1999年のドラフトで逆指名によりロッテに入団。長く先発ローテーションの核として活躍した。日本代表としては2004年のアテネ五輪で銅メダルを獲得し、2006年の第1回WBC(ワールド・ベースボールクラシック)の優勝に貢献。2009年にトレードでDeNAに移籍し、2014年に現役を引退。通算成績は294試合登板105勝100敗。引退後はニュージーランドで野球連盟のGM補佐、ジュニア代表チームの監督を務めたほか、2019年には沖縄初のプロ球団「琉球ブルーオーシャンズ」の初代監督に就任した。