斎藤佑樹が明かすマー君への複雑な想い 田中将大とのプロ初対決後の「4年間の差」発言の真相
2006年、斎藤佑樹は夏の甲子園で勝って全国の頂点に立った。その日から5年の時を経た2011年9月10日。駒大苫小牧からイーグルスへ入団した田中将大はプロ5年目にして通算で60の勝ち星を積み重ね、世代トップを独走していた。そして、ルーキーの斎藤は5勝を挙げている。この2人が、プロで初めて先発として投げ合うことになった。
2011年9月10日、プロ入り後はじめて対戦した斎藤佑樹(写真左)と田中将大
あれは9月でしたか......。あの時は8月末くらいからマー君(田中将大)と僕の先発する日が同じになったんです。そうすると周りからは、ローテーションどおりにいけばこの日に投げ合うんじゃないか、ということは言われていました。だから、なんとなくそういうことになるんだろうと思っていました。
結果は、完投しましたが(8回、123球、被安打10、与四球1、奪三振1、プロ初完投、斎藤はこれで5勝4敗)、1対4で負けました。あの試合、マー君も完投したんですよね(9回、118球、被安打5、与四球1、奪三振12、15勝4敗)。
真っ先に思い出すのは背番号0の左バッター、内村(賢介)さんの打席です。初回、ワンアウトから2番の内村さんにセカンドの右へ高いバウンドのゴロを打たれて、これが内野安打となった。それをきっかけに先制点を与えてしまいました(3番の高須洋介のレフト前ヒットでワンアウト一、三塁、4番の山?武司がライトへ犠牲フライ)。
その後、5回までは0−1でいったんですが、6回、追加点を与えてしまいます。高須さんにアウトハイのカットボールをうまく流されてライト前ヒット。その高須さんを二塁に置いて、5番の(ルイス・)ガルシアに低めのフォークボールかチェンジアップを拾われて打たれた気がします。
それがタイムリーとなって2点目をとられてしまった......あの場面を抑えきれば、まだまだ勝負できるチャンスがあったはずなのにな、と思っていました(この回、さらに中村真人、嶋基宏にもタイムリーを打たれて3失点、0−4となる)。
マー君のことで覚えているのは、僕が8回裏を投げ終わったあと、彼が9回表のマウンドに登って投げている姿です。8回までをゼロに抑えて、最後、完封目前でピンチを迎えました。(中田翔が内野安打を打って)ツーアウト満塁になったところで(二岡智宏が)押し出しのフォアボールを選んで、1−4と3点差になった。もしかして逆転も、なんて思った途端、(陽岱鋼が3球三振して)試合が終わりました。
それでも彼は、すごく悔しそうな顔をしていました。完投して、勝って、15勝目で、それでも悔しそうだった。9回1失点でもそんな表情をするんだなと思いました。
いま思えば、完封目前だったのに押し出しでそれを逃したんですから、悔しさを顕わにするのももっともだったと思いますが、あの時の表情が今でも印象に残っています。
【本気で追い越したいと思っていた】僕のなかであの試合は、挑戦者の感覚で臨んでいました。マー君はプロの先輩ですし、すでに実績もありました。当時、マー君のことを訊かれたら、『すごいな』『近い将来、メジャーに行くのかな』とか、そういうとおりいっぺんのことしか答えられなかったと思います。
高校の時のこととか、ライバル云々とか、そういうコメントを口にできるはずがありません。それは、僕が本気でいつかマー君に追いついて、追い越したいと思っていたからです。勝負はこれからだって、心のどこかで言い聞かせていました。
当然、高校の時もプロに入ってからも、ピッチャーとしてはマー君のほうが上だとずっと思っていました。でも30歳になったら、あるいは40歳になったらどうなるかはわかりませんし、大学4年間の経験を生かせると、僕は思っていました。だからプロで初めて投げ合った試合後、ああいうコメントになったんだと思います。
「この4年間の差を......野球での差を埋めるために、努力していく価値を見出せました。この差は決して大きくないし、まったく追いつけないものではないと思います」
「4年間の差」という言葉そのままに、当時の僕は、時間や経験値以上の大きな差ではないんじゃないか、と生意気にも思っていました。マー君と僕とではピッチャーとしてのスタイルが違うと考えていました。
マー君のように圧倒的なパワーで抑えることは僕にはできませんでしたが、試合で勝つには、ピッチャーとしてのパワーとは別の要素も働きます。野球はピッチャー対ピッチャーの対決ではないし、たとえば初対決の試合も9回表、最後に満塁ホームランが飛び出していたら、その一発で結果が変わっていたかもしれないわけで......言い出したらキリがないし、ああいうところで絶対にホームランを打たせないのが、マー君のすごさだと感じています。
でも、野球で勝ち方はいくつもある。そういう紙一重のところで結果が変わっていくとしたら、当時の差がそんなに大きなものじゃないと考えていたのは、自然だったかなとも思います。
当時は僕だけじゃなく、大学に進んだみんなが4年間で何かをつかもうと懸命に野球をやっていました。(早大の)應武(篤良)監督にも『おまえらの4年間の価値は死んだ時に出てくる、だから試合でもし負けても、その一回で勝負はつかないからな』と言われてきました。野球の勝ち負けは大切ですけど、まず人間として、野球から学ぼうという気持ちが大きかったのかもしれません。
与えられている物理的な時間は高校からプロへ行こうが、大学へ行こうが、一緒です。でも、野球に取り組める最新の環境と集まってくる情報量は、プロ野球のほうが圧倒的に多いだろうと思っていました。
【意識していないはずはない】その一方、大学では野球ばかりに時間を費やせない分、学校で授業を受ける時間とか寮に帰って宿題や課題に取り組む時間、レポートや論文を書く時間......そういういろんなことに追われます。そう考えると、大学生はいくつものタスクを整理して、さまざまなジャンルのことを学び、思考していく。それをすぐ野球に生かせるとは限りませんが、何かを吸収したり、積極的にアクションを起こしたり、人としてのキャパシティを広げることにはつながるんじゃないかと思います。
マー君がどう思っていたのかはわかりませんが、僕は世の中の"マー君と佑ちゃんってこうだよね"という流れに引っ張られていたのかもしれません。いろんな点で対照的な2人......比較しようとする世の中の見方に、僕自身も流されているような感覚がありました。
だから当時は「意識していない」とコメントしていましたが、意識していないはずはなかった。やっぱりマー君は意識せざるを得ない存在でしたし、彼はそれほど次元の違うピッチャーでした。
マー君には野球選手として学ぶべきポイントがものすごくたくさんありました。もし僕が余計な意識をしていなかったら、純粋に参考にしてもよかったんじゃないかと思うところがあるんです。真似をしてもよかったんじゃないかと思うんです。フォームや身体の使い方、打ち取り方にしても僕とはまったく違う。だからこそ参考になることがあったかもしれない。
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6勝6敗、防御率2.69──プロ1年目に残った数字だ。先発した19試合のうち、5回を投げきることができなかったのは2試合、5点を失った試合はゼロ。つまりルーキーの斎藤は先発として試合をつくる仕事を果たしていた。その一方、プロでも特別な存在として輝くことを期待した向きからは物足りないと映ったはずだ。そして2年目、栗山英樹という新たな指揮官のもと、斎藤は刺激的な開幕を迎えることとなる。
(次回へ続く)