私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第24回
「8人の明神」と称された男の知られざる苦悩〜明神智和(1)

 明神智和が初めて日本代表に招集されたのは、2000年2月だった。カールスバーグ杯の香港リーグ選抜戦で途中出場。その直後のアジアカップ予選の初戦、シンガポール戦(3−0/2月13日)でも後半から出場し、国際Aマッチデビューを果たした。

 明神は代表チームに合流した際、さすがに昂る気持ちを抑えることができなかった。そこには、子どもの頃から憧れていたスーパースターがいたからだ。

「初めて代表に呼ばれてうれしかったこともあるんですが、それ以上にカズさん(三浦知良)と同じ代表のユニフォームを着られる、ということが大きな喜びでした。でも、めっちゃ緊張しました。

 僕が中学生の頃、カズさんはブラジルから帰ってきて、当時、読売クラブの試合を国立によく見に行っていたんです。(自分の)ポジションは全然違いましたけど、カズさんのまたぎフェイントとか、切り返しとか、よく真似するぐらい大好きでしたから」

 1990年代の日本サッカー界をリードしてきたカズや中山雅史ら、テレビで見ていたメンバーと日本代表で一緒に戦えることに、明神は胸の高鳴りを覚えた。

「僕にとって、日本代表で戦うことは大きな目標でもありましたから」

 明神は、それまでにも世代別代表で活躍してきた。U−20日本代表では、1997年にマレーシアで開催されたワールドユースに出場。宮本恒靖、柳沢敦、中村俊輔らとともに戦って、ベスト8入りを遂げた。明神にとっては、初めて経験した世界大会だったこともあり、得るものはとても大きかったという。

「世界での自分の立ち位置、基準を知ることができた。それが、一番大きかったですね。自分は守備面を強みにしていましたけど、ガーナとか中堅クラスの国が相手なら、ふつうにやれたんです。

 ただ一方で、スペインと対戦していた時は、バルサに所属している選手もいて、ボールを奪えなかったですし、ほとんど何もできなかった。チームの完成度も含めて、差があるなと思いました」

 U−20代表では、当時の所属先である柏レイソルでのポジションと同様、ボランチでプレーしていた。粘り強い守備とボール奪取が持ち味で、U−20代表のキャプテンだった宮本が「ミョウ(明神)が中盤の軸」と言うほど、チームメイトからの信頼も厚かった。明神も自らのポジションでのプレーには、自信とプライドを持っていた。

 そして、フィリップ・トルシエが指揮官を兼任していた五輪代表でもボランチを務めていたが、日本代表では"フラット3"戦術をベースとする3−5−2の右ウィングバックで起用された。

「(ポジションを言い渡された時は)最初、『えっ!?』って思いました。それに、トルシエからは『いつもどおりプレーしてくれ』と言われただけで、要求とか一切なかったんです。ふつうのウィングバックのように、何度もサイドを突破してクロスを上げる、みたいなプレーは求められなかった。

 もしそういったことを要求されていたら、無理だったと思うんですけど、僕の守備の特徴を右ウィングバックで出せばいい、といった感じだった。ですから、ふだん(所属する)チームでやっていないポジションでプレーする難しさはありましたけど、『嫌だなぁ』という感覚はなかったです」

 明神が担う右サイドとは逆、左ウィングバックには中村や小野伸二ら攻撃的な選手が入っていた。そのため、攻撃時には左サイドの選手が前目のポジションをとり、右サイドの明神は下がって対応する可変的なシステムだった。

「自分としては、ある程度やれました。ゴンさん(中山)とか、ベテランの選手がいろいろ助けてくれて、チームの雰囲気もすごくよくて、また『ここでプレーしたい』という気持ちがより強くなりました」

 初めての日本代表。明神は上々のスタートをきった。

 そのあと、明神は五輪代表に合流してシドニー五輪に挑んだ。

 同五輪代表は1997年のワールドユース組と、「黄金世代」と呼ばれる1999年のナイジェリア大会で準優勝したワールドユース組との混合チーム。結成当初、マレーシア組の柳沢は「ナイジェリア組の選手たちは、オレらはトルシエ戦術を理解し、世界で準優勝したという自信がすごかった」と語り、それぞれがバチバチにやり合うかと思われた。しかし、世代融合は意外と早かった。明神が言う。

「僕らの代はおとなしい選手が多く、下の"黄金世代"はナイジェリアで準優勝して、Jリーグでも試合に出ている選手がたくさんいて、自信にあふれていました。それで、プレーも尖っていましたけど、(小野)伸二をはじめ、人間性は明るくて、楽しかった。トルシエの戦術とか教えてくれたりして、いろいろと気を遣ってくれたので、かなりスムーズに融合することができました」

 柳沢、高原直泰、中村、稲本潤一、松田直樹、中澤佑二など、もともとタレントぞろいの五輪代表だったが、最終予選からは中田英寿が合流。さらに、本番では楢崎正剛らオーバーエイジが加わって、メダル獲得への期待が大きく膨らんだ。

 実際、ブラジルにこそ0−1で敗れたものの、グループリーグを難なく突破した。しかしながら、決勝トーナメント1回戦でアメリカ相手に苦戦。PK戦の末、惜しくも敗れた。

 そのシドニー五輪で、明神は全4戦で先発フル出場。トルシエの信頼を得て、そのままアジアカップのレバノン大会に臨む日本代表にも招集された。

 決勝のサウジアラビア戦まで、明神は全6試合に出場(うち5試合は先発フル出場)。準々決勝のイラク戦、準決勝の中国戦ではゴールも挙げ、チームの優勝に貢献した。

「初戦のサウジ戦(4−1)に勝ったあと、負ける気がしなかった。個人的には珍しく点も取れましたし(笑)、プレーしていて楽しかった。

 大会中はゾーンに入るというか、自然に体が動いて、いい判断もできて、シドニー五輪からアジアカップまで、プレーがどんどんうまくなる状態が続いていたんです。この2カ月はずっとホテル暮らしで大変でしたけど、自分にとってはその後(の成長や飛躍)につながる重要な期間でした」

 この2000年アジアカップで、日本代表は圧倒的な強さを見せた。2002年日韓W杯に向けて、チームのベースも出来上がっていった。

 トルシエは「もうアジアではなく、次は世界だ」と声高に宣言。明神ら選手たちも「次は世界でどれだけやれるか」というマインドに変化していった。

 その最初のチャレンジが、2001年3月のフランス戦だった。

 フランス・パリのスタッド・ド・フランスで、W杯の前回王者であるフランスと対戦。日本はアジア王者として、真っ向勝負を挑んだ。

 ところが、雨で泥んこ状態だったピッチで展開された試合は、フランスのワンサイドゲームとなり、日本は0−5と大敗を喫した。

「あれは、かなりのショックでした。アジアナンバー1になって、ある程度戦えると思ったんですが、雨のなかグチャグチャのピッチで、チームとしても、個人としても、手も足も出ずにボコボコにやられた。

 フランスは本当にすごかった。あんなピッチでも(フランスは)技術のブレはないし、ふつうにプレーしていた。(自分の)鼻をへし折られたし、『すべて違うな』って思い知らされました」

 明神は自らの無力さを痛感させられた。

 日本代表はチームとしても、まるでいいところを見せられなかった。しかしそんななか、唯一"違い"を見せていた選手がいた。当時、イタリアのローマでプレーしていた中田英だった。

「やっぱり日本の、いつもきれいなピッチだけで試合をしていると、ああいう場では何もできない。でも、世界で、ああいったピッチで、強い相手と戦っているヒデさんだけは、ふつうにやっていた。

 ヒデさんのプレーを見ていて、改めて(日頃から)経験しているものが違うんだな、と。単純にすごいと思いましたし、僕にはそういう経験がまだまだ足りないと思いました」

 トルシエの目にも、中田英のプレーはしっかりと焼きつけられた。以降、トルシエはチームの軸に中田英を置いて、その"エース"の起用に固執していくことになる。


明神智和が「出ないほうがよかったのかな......」と語ったフランス戦

 と同時に、トルシエはこの時からアジアカップでの結果に蓋をして、新たな選手を探し、試していくようになった。

「確かにあそこからですね、2002年に向けてポジション争いが激しくなっていったのは。フランス戦で、僕のそれまでの評価もすべてなくなってしまったような感じでした」

 明神が鎮座していた右ウィングバックには、波戸康広、市川大祐らが新たに招集された。

「この頃から、W杯のメンバー発表までの約1年間は、一番悶々としていた時期でした。フランス戦の結果を受けてのことなんですが、続くスペイン戦からは、なかなか試合に出られなくて......。代表で試合に出るためだけのことを考えたら、フランス戦に出ないほうがよかったのかなとか、いろいろと考え込んでしまいました」

 明神が代表で出場機会を失ったのは、波戸や市川らが明神とは違う持ち味を発揮し、それがチームにハマッたからでもある。彼らのよさは、スピードを生かした攻撃参加と、精度の高いクロスを上げられることだった。

 おかげで、明神はさらにジレンマを抱えることになった。ライバルたちの特長が自らの課題だと理解していたからだ。しかも、所属クラブでのポジションはボランチ。自分の足りない部分を補う練習ができなかったからでもある。

「代表へのアピールってことを考えると、波戸さんやイチ(市川)のような攻撃面でもよさを見せることが重要でしたし、自分もそういうプレーをしないといけないと思っていたんです。

 でも、クラブに戻るとボランチじゃないですか。そこで、右ウィングバックに入って、センタリングの練習をガンガンするわけにはいかない。『このままだと、W杯のメンバーに入るのは難しい』――そう思ったりして、気持ち的には沈んでいることが多かったですね」

 だが、明神の思いとは裏腹に、トルシエは守備能力の高いボランチ兼ウィングバックを高く評価していた。

 2002年5月。明神は柏のクラブハウスの応接室で、日韓W杯の日本代表メンバー発表の瞬間をひとりで待っていた。

「23名のメンバーに入れるかどうか、五分五分だと思っていました」

 緊張が高まるなか、自らの名前が呼ばれた。明神は、憧れだったW杯のピッチに立つ切符を手にしたのである。

(文中敬称略/つづく)◆明神智和「ピッチに立って戦いたい...とはまったく思わなかった」のはなぜか>>

明神智和(みょうじん・ともかず)
1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。1996年、柏レイソルユースからトップチーム入り。長年、主将としてチームを引っ張る。その後、2006年にガンバ大阪へ移籍。数々のタイトル獲得に貢献した。一方、世代別の代表でも活躍し、1997年ワールドユース(ベスト8)、2000年シドニー五輪(ベスト8)に出場。A代表でも2002年日韓W杯で奮闘した。国際Aマッチ出場26試合、3得点。現在はガンバユースのコーチを務める。