消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜小川博文(前編)

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「小川くん、肉の焼き方どうする?」

「はっ⁉︎ 肉の焼き方って、何ですか?」

 毎週土曜日、プリンスホテル野球部合宿所の食堂では昼にステーキが出る。入社1年目の小川博文も、ホテルのシェフが食事をつくることは知っていた。だが、合宿所で初めての土曜日を迎えて衝撃を受けた。

 ときに、1985年。プロではオリックス、横浜で活躍した小川もまだ18歳で、前年までは千葉・拓殖大学紅陵高での寮生活。外界から閉ざされた環境にあった。「レアとかミディアムかとウェルダンとか、そんなん知りまへん」と笑う小川に、プリンスでの野球生活を聞く。


プリンスホテル時代、全日本の一員としてソウル五輪に出場した小川博文

【高校3年時に春夏連続甲子園出場】

「とにかくごはんがおいしくてね。食べ盛りの18の子にしたら、目がキラキラしますよ。都市対抗の時は補強選手もプリンスの合宿所に入るんですけど、東芝府中から初芝(清/元ロッテ)が来た時なんか『小川ちゃん、ごはんがおいしくてたまらん』って、朝から丼飯3杯食ってね(笑)。初芝とは同学年で高校の時に対戦してるんです。あいつピッチャーでしたから」

 初芝は東京・二松学舎大付高出身。初対面は、同じ関東で監督同士のつながりで組まれた練習試合だった。一方、小川は拓大紅陵3年時の84年、春夏連続で甲子園に出場。夏の大会は初戦で敗れたものの、センバツではベスト8に進出。小川自身は俊足強打で1年秋から2番・二塁でレギュラーとなり、3年時は3番を打っていた。

「でも高校に入る時、そこまで行けるなんてまったく思ってなかったです。千葉の館山でね、小学生の時は学校の野球部。中学も軟式の野球部しかやってない。たまたまピッチャーの子が拓大紅陵から誘われて、野球部の顧問だった教頭先生から『館山からひとりで行かすのは寂しいから、おまえもついて行ってやれよ』と言われて行ったんです」

 当時の拓大紅陵監督の小枝守は79年、日大三高を率いて甲子園に出ていたが、小川はその実績も知らずに入学。いざ入部すると初めて持つ硬式球が重く、投げるのも打つのも苦労して5月までは「草むしり」だった。それでも、初めて同行した遠征試合に代打で出て、右中間に二塁打。再び巡ってきた打席でもレフト線に二塁打を放ち、小枝の小川を見る目を変えた。

「その2本のツーベースでレギュラーです。1年生で春から試合に出ている同級生もいて、草むしりが悔しくて、夜もひとりでバット振ってたおかげかもしれません。でも、たぶん監督は、『打ってくれたらラッキー』くらいな気持ちで使ったと思いますので、そこでヒットが出たのは運がよかっただけだと思うんですよ」

 少ないチャンスを最大限に生かせる打撃は大舞台でも変わらず。84年のセンバツでは、3試合で11打数5安打1本塁打と打ちまくっている。172センチと小柄ながらパンチ力があり、二塁守備はスピーディーでダイナミックな動きが光った。その動きに、プリンスホテル野球部監督となる石山建一は目を奪われていた。夏の甲子園初戦、鹿児島商工高(現・樟南)との一戦でのことだ。

【高校野球の監督をやりたかった】

 当時、石山は81年途中に野球部助監督を引責辞任し、関連会社の西武商事に勤務していた。そのため現地には行けずテレビ観戦だったが、一死一塁の場面、サード前にボテボテのゴロが転がり、三塁手が二塁に投げた。当たりが弱いから高校生はゲッツーにはできないと思った次の瞬間、二塁手が極めて素早い動きで送球して一塁もアウトにした。それが小川だった。

 現役時代は内野手だった石山の目で見れば、小川の動きは決してスマートではなく、投げ方も我流で褒められたものではない。だが、ボテボテのゴロでゲッツーにした敏捷性と身体能力は将来性豊かと感じた。同年秋に監督として復帰した石山は、自ら拓大紅陵に出向くことになる。ただ、小川自身、卒業後の進路に社会人野球は考えていなかった。

「甲子園に出て、どうしても高校野球の監督をやりたいと思ったんです。それで小枝さんと面談した時に『進学したいです』と伝えました。そしたら『わかった』と。六大学や東都のセレクションに行きました。ただ、地元の社会人チームからも誘ってもらっていて、最終的にどっちに行きたいかとなって、親も『大学行って何かやりたいことはあるの?』という話になって」

 悩んでいる時、二度、三度と学校に足を運んでいたのが石山だった。初めて面談した時、小川を二塁で起用することを前提に、遊撃をはじめほかのポジションに就く選手の名前を挙げた。「すごいメンバーが来るんだな......」と思った小川は、例によって石山の球歴も知らずに「お世話になります」と言っていた。プリンスホテルの名も、野球部のレベルも知らないまま入社試験を受けた。

「学生服を着て、原宿の国土計画のビルまで行って。同じ高校出が6人一緒だったんで、先輩も同い年ぐらいかと思ったんですけど、入ってみたら何か雰囲気が違う。先輩方、ごっつい人ばっかりで。聞くと、プロにドラフト指名されてもおかしくない大学のスターやプロに行かずにプリンスに入ったという方がいて、オレは何ていうところに入ったんだと」

【4年後のソウル五輪を目指せ】

 小川が入った85年のプリンスは、1期生で「大学球界のスター」と言われた内野手の居郷肇(法政大/元西武球団社長)、中屋恵久男(早稲田大)が在籍。サブマリン右腕の吉田幸夫(青山学院大)も、前年のロサンゼルス五輪で活躍していたから小川を驚かせた。さらに他社から移籍した両ベテラン、投手の鈴木政明(勝山高)、外野手の中本龍児(近畿大)は想像を絶していた。

「鈴木さんはカープで活躍された山根(和夫)さんのお兄さんで、20年連続都市対抗出場ってすごすぎます。あと、中本さんが何かと怖い方で......。怖いと言えば、野球部専用バスの専属運転手のおじいちゃんが厳しくて。休みの日に『高卒6人、集合せえ!』って言われて行ったら『バスを掃除せい』と。掃除は新人の仕事ということなんでしょうけど、高校出だけなんです」

 合宿所での休日の電話当番も高校出は3年間、大学出は1年間という決まりもあった。球歴による微妙な違いも感じつつ、2月の鹿児島・奄美大島キャンプを経て、帰って来て、小川はまた驚くことになる。

「はっきり言って、僕は田舎者でしたから。西武ライオンズの室内練習場を借りていると聞いていたのに、ユニフォームを着てる人を見て、『あれ、プロ野球選手?』って興奮したり。『何なんだ、ここは......?』となることが多かったですね」

 東京・立川市にあった野球部専用の玉川上水球場(現在は跡地に拓大一高の校舎とグラウンドがある)。広大な霊園が隣接していて、異様な雰囲気があるのはたしかだ。そんな環境で社会人生活が始まる時、石山が小川に言った。

「まず4年間、社会人でやれ。4年後にソウルオリンピックがあるから、おまえはオリンピックに出て、プロに行け」

 進学を断念したのだから、高校野球の監督になるのは難しい。ならば、ここでプロを目指すしかないと考えていた。それでも当時の小川は、石山の言葉を素直に受けとれなかった。

「失礼な話、そんなうまく行くわけないやろと思ってました。たしかに、より高いレベルで、と思ってプリンスを選びましたけど、メンバーを見て、レベル高すぎるでしょ......と。オリンピック出場はもちろん、4年ではプロに行けんやろって」

後編につづく>>

(=敬称略)