2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第20回・池田耀平(日本体育大学―Kao)後編

前編を読む>>箱根駅伝2区で日本人1位となった 元野球部のエースがなぜ日体大でエースまで上り詰めたのか


2023年3月の大阪マラソンでは日本人2位を記録した池田耀平

 日本体育大学4年時に箱根駅伝2区を日本人トップの67分14秒で駆け抜け、学生トップランナーであることを証明した池田耀平。

 大学卒業後、どの実業団チームに進むのかは早くに決めていたという。

「大学2年の箱根が終わった時、鐘紡(現Kao)の高岡(寿成)監督に『合宿に参加してみないか』と声をかけていただいたんです。その時は故障で走れなかったんですが、3年になってタイムが出た時、『正式にうちでやらないか』とお声掛けしていただき、『やりたいです』と即答させていただきました。やはり高岡さんに声を掛けていただいたことが一番うれしかったですし、監督の下でなら自分はもっと強くなれるんじゃないかと思ったので」

 大学時代からロードでは誰にも負けたくないないと思っていたが、入社後はすぐにマラソンに移行せず、トラックで勝負しようと決めていた。

「マラソンは、将来的にはやりたいと思っていました。でも、高岡さんがそうだったように、若い時にトラックでスピードをつけてからと思っていたので、マラソンをやるのはもっと先だと考えていたんです。自分のイメージでは、パリ五輪まではトラックをやっていく計画でいました」

 アフリカ勢などは、そのやり方が踏襲されており、世界記録保持者のエリウド・キプチョゲもマラソンをスタートさせたのは28歳の時だった。池田もそういう順序で考えていたが、テレビで見ていたマラソンが180度、思考を転換する大きなキッカケになった。

「大阪マラソンで星(岳・コニカミノルタ)君が優勝したんです。僕と同じ世代がマラソンで結果を出している姿を見て、ある程度、年齢が上にいってからとか、そういう変な先入観は捨てて、今からマラソンに取り組んでもいいんじゃないかと思ったんです。それに1年目はトラックを主にやっていたんですけど、日本選手権に出るレベルまでは行けるけど、その上に行くには何かを変えないといけない。このままダラダラとトラックを中途半端にやってていいのかと思い始めていたので、マラソンを始めるタイミングがうまく合った感じでした」

 池田は星の走りを見た後、高岡監督に「マラソンを走りたい」と直訴した。監督からは、「まだ早いんじゃないか。マラソンは覚悟を決めてやらないとダメだぞ」と言われたが、池田は「やりたいです」と即答した。話をしにいった時点で覚悟を決めており、翌年2月の大阪マラソンをターゲットレースに決めていた。

【タイムは出たけど勝負で負けた】

 だが、なぜ初マラソンの舞台を大阪マラソンにしたのだろうか。

「同世代の星君が優勝したので自分もという気持ちがありましたし、東京はペース設定が早いので初マラソンで先頭集団についていくのはかなり厳しいと思ったんです。大阪だとキロ3分ペースで、アップダウンのアクセントもあるので、そういうほうが自分に合っていると思って大阪マラソンに決めました」

 そこからの1年は、大阪だけは絶対に外すことがないようにと練習をつづけた。そうして、2023年2月、池田は大阪マラソンのスタートラインに立った。1年間かけて自信を膨らませてきたが、マラソンは初である。余裕を持って走っても急激にキツくなったらどうしよう。そのキツさはどのくらいのものなのか。その苦しみに向かっていくと、どうなるのだろう。そういう不安を感じることもあったという。

「監督からは、『絶対にどこかの場面でキツくなる。本当に苦しい場面を乗り越えていく感じでやっていかないとマラソンは走れない』と言われていたので、いつキツさが来るのかなと思っていたんです。でも、思った以上に余裕を持って走れていて、キツくなったのは35キロを超えて37キロぐらいでした。なんとかうまく乗り越えていけそうでした」

 後半、池田は西山(和弥・トヨタ)と競り合っていた。「ここは勝たないといけない」と思って粘ったが、惜しくも西山には届かなかった。それでも2時間06分53秒で日本人2位、総合7位で初マラソンを終えた。

「大阪での目標は2つあって、まずは日本人トップを獲って、世界陸上の代表になること。もうひとつは初マラソンの日本最高記録を出すことでした。タイム的には06分台が出たので、そこは出来すぎかなと思ったんですけど、勝負というところでは西山君に負けてしまって‥‥。日本人トップじゃないと世陸には出られないと思い、なんとしても勝ちたいと思って走っていたんですが、代表になれなかったので、本当に悔しかったです」

 池田はブダペスト世界陸上の出場権を得られなかったが、MGC出場権を獲得した。

 また、このレース結果で9月下旬から開催されるアジア大会のマラソン男子日本代表に選出された。10月15日にはMGCがある。MGCに挑戦するのか、それともアジア大会を取るのかで注目されたが、池田はアジア大会への出場を決め、MGCは出場しないことを決めた。

「本当は世陸に行きたかったんですが、それが難しくなったと思っていたらアジア大会の代表の話をいただいたんです。最初はアジア大会かぁ、ちょっとなぁ。だったらMGCに出たほうがいいかなって思っていました。でも、監督からは『将来的なことを考えたらアジア大会に出たほうがいい』と言われて‥‥」

【2時間3分台は狙える】

 池田は、まだ日本代表のユニフォームを着て走った経験がなかった。

 仮にアジア大会の代表の座を捨てて、MGCを走っても2位以内に入れなければ、パリ五輪の代表にはなれず、MGCを走った経験だけで終わってしまう可能性もある。一方、アジアの舞台で日の丸をつけて走ることは、経験としても次のステージを目指す意味でも大きいと監督に言われた。

「監督やコーチの意見を聞いて、いろいろ考える中で、アジア大会で日本代表として走った後、その先のことは考えていけばいいかなと思い、10月のMGCは出場しないことを決めました」

 だが、パリ五輪を諦めたわけではない。

 MGCでは2位内に入れば、自動的にパリ五輪、日本男子マラソン代表選手に内定するが、もう1枠残っているのだ。MGCファイナルチャレンジの対象レースである福岡国際や大阪マラソン、東京マラソンで設定タイムの2時間5分50秒を上回って優勝すれば、ラストの1枠を獲得することができる。

「もし、MGCに出なければ完全にパリへの道が断たれるということになれば、僕はMGCを選んだかもしれません。でも、来年3月の東京マラソンまでファイナルチャレンジがあるのでチャンスは残っています。今回、無理に65名の選手と競って2枠を争うよりもアジア大会で日本代表として走る経験を積んで結果を出した後で、最後の1枠に挑戦したい。アジア大会から東京までは半年ありますので、もう1回トラックでスピードを磨いて、ファイナルチャレンジで勝つことを見据えながらやっていきます」

 池田は、世陸や五輪に出るだけでは意味がないと考えている。

 マラソンの世界は2時間2分、3分台が当たり前になりつつある中、アフリカのトップランナーと戦うには、どうすべきか。自分で方向性を見出し、今後も強化を続けていく覚悟だ。

「ケニアを始めアフリカ勢と比較すると日本人はスピードで難しい部分があって、マラソンをするとどうしてもマラソンだけにフォーカスしすぎているのを感じていました。僕は、もう少しトラックで叩いてスピードをつけていけば、足りない部分を補えるんじゃないかと思っています。トラックで日本のトップレベルのタイムを出してマラソンに活かしていければ、2時間3分台は狙って行けるところにある。それが今、自分が一番やってみたいことですし、取り組んでいることでもあります。新しいパターンですけど、うまくかみ合わせて世界で結果を出していきたいですね」

 池田のトラック&マラソンの二兎を追うスタイルは、アフリカ人のようにトラックからマラソンに移行するという時間のロスをなくし、マラソンでの可能性を広げてくれることになるかもしれない。それが実を結べば、池田はまだ誰も見たことがない景色を見られる選手になれるだろう。