2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

※  ※  ※  ※

パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第20回・池田耀平(日本体育大学―Kao)前編


池田耀平は2年連続の1区から、最終学年では花の2区を好走

 日本体育大学時代、池田耀平はエースとしてチームを牽引し、個人としても2020年日本選手権10000mで27分58秒52を出すなど、学生ランナーとして速さと強さを見せた。入社したKaoでは、今年2月の大阪マラソンで初マラソンながら2時間6分53秒で日本人2位となり、MGC出場権を獲得した。だが、アジア大会のマラソン男子日本代表に選ばれたこともあり、MGCへの出場を見送った。そこには、タフで強い国際派ランナーになるための池田の緻密な計算があった――。

【日体大の上下関係は非常に厳しい】

 池田は、中学時は野球部でエースだったが、島田高校に入学後、陸上を始めた。

「中学まで軟式でそれなりにやれていて、高校から硬式になるので練習会に参加していたんです。でも、思ったよりもできなくて、体格的にも厳しいなと思って‥‥。その時、高校の先生に声をかけてもらって、陸上を始めました」

 野球をやめる際、両親には「よく考えて」と言われたが、中学では秋冬に駅伝などで走っており、陸上に抵抗感はなかった。高校入学後、最初は陸上についてわからないことばかりだったが、先生の指導で着実に成長。高3の時には5000mがメインだったが、インターハイ1500mで5位に入るなど結果を残した。

「高校で走ると決めてから中距離よりも箱根駅伝を走りたいと思っていました。小中学生の頃から親が見ていたので僕も見ていて、いつの間にかそこで走りたいと思うようになったんです」

 箱根を目指した池田が進学先として選んだのが、日本体育大学だった。

「最初は、行きたいっていう感じではなかったんです(笑)。個人的には駒澤大に行きたかったんですが、声が掛からなかったので‥‥。いくつかお話がきた中から日体大に決めたのは、高校の先生が日体大出身で、体育の教員免許を目指せるとか将来のことを考えてくださって、当時の日体大の渡辺(正昭)監督が熱心に誘ってくださったからです」

 日体大は質実剛健の大学で、昔から上下関係には非常に厳しいと言われていた。池田も多少は覚悟はしていたが、想像以上の厳しさや理不尽な扱いに面食らった。生活面で慣れないことが多い中、陸上もシンスプリントから膝痛など故障がつづき、1年目は箱根駅伝には至らず、ほとんど走れずに終わった。

「正直、もうやめようかなと思った時もありました」

 池田が追い詰められた時、退部を思いとどまったのは自分を支えてくれる人や同期ら仲間の顔が浮かんだからだった。

「僕は箱根駅伝で活躍したいと思って日体大に入学してきたんですが、その際に多くの人が応援し、支えてくれたので、そういう人たちの期待を裏切りたくないと思ったんです。あと、同期ですね。同じように故障で苦しんでいる選手が多かったので、もう1回、みんなで頑張って強くなろうって団結した。それで乗り越えられたんです」

【日体大は箱根では弱小でした】

 2年目からは、「1年目をもう1回やり直す気持ち」を持って競技に取り組んだ。距離を踏み、ウエイトをこなし、20キロを走れる体を作ることに専念した。フォームも蹴るのをやめ、踏み込むようなピッチ走行にシフトした。その結果、故障なく、夏合宿を走り抜け、出雲駅伝1区(14位)で駅伝デビューを果たすと、全日本大学駅伝で1区(13位)、箱根駅伝でも1区(12位)で出走した。

「もともと単独で走るのが得意ではなくて、その成功体験もなかったので苦手意識が強かったんです。だから、集団で走る1区を走りたいという気持ちが強かったですし、そこを目標に取り組んできたのですべて1区を走れてよかったです。でも、すべてただ走るだけみたいな順位に終わってしまったので‥‥。特に箱根は1区を走れるうれしさがすごくあったんですが、全然戦えなかったですし、チームも13位に終わって悔しさしかなかったですね」

 大学3年時、池田は飛躍のシーズンを迎えた。

 2年からのウエイトや補強トレーニングが効果を見せ始め、5000mや10000mでタイムが出るようになった。

「3年時は、2年からのウエイトなどの継続ともう1度、スピードを取り戻したいと思ってトラックでスピードを磨いたんです。5000mで13分台、10000mでも28分台を出せて、大学生としては上位の指標となるタイムを出せたことで、自信を持って箱根に臨めました」

 その頃、池田は「日体大のエース」と言われ、レースで注目される存在になっていた。だが、本人はそういう実感がほとんどなかったという。

「日体大は、箱根では弱小でしたからね(苦笑)。シード校の選手なら注目されたと思うんですけど、僕はそういうこともなく、自分のことだけに集中してやれていました」

【最後の箱根は花の2区に】

 大学3年の箱根は1区を駆け、区間3位という結果を残した。しかし、チームは、総合17位に終わり、シード権を獲得することができなかった。

「3年時の1区は、それまで練習でやってきたことへの自信を持って、うまく調子を上げていけたので、3位内を狙ったんです。そこで狙い通りにしっかりと3位内で走れたのは、自分には大きな自信になりました」

 大学4年は、チームに大きな変化が起きた。

 2年の途中に監督が不在になった後、長距離は専門的な監督を置かずに学生主導で部を運営してきた。ようやく、夏合宿前に玉城良二が監督に就任し、指揮を執ることになった。

「玉城さんが監督として来られるまで学生主体で考えてやっていたんですが、どうしても厳しさに欠けてしまい、練習でダラダラと走ったり、無意識のうちに妥協していたんです。でも、監督が来てからはしっかりと方向性を示してくれたので、すごくやりやすかったですね」

 玉城監督は、特別なことはせず、例えば朝のジョグは何も考えずに走るのではなく、ペースを早めるなど、練習の意味と意図を学生に説明し、取り組ませた。また、監督の指導で緊張が生まれ、チーム全体が引き締まり、戦うムードが醸成されていった。

 最後の箱根駅伝、池田は2区を希望した。

「最後はやっぱり2区を走りたいと思いました。チームでは中心でやってきましたし、そういう選手が2区を走るのは自然の流れ。自分がやらないと、という意識が強かったです。それに2区の準備をしていれば他の区間になっても十分に走れるので、夏から準備していました」

 12月、池田は日本選手権の10000mに出場した。箱根の本番1か月前、27分58秒52の自己ベストを更新するタイムを叩き出した。

「27分台を出せて満足だったんですけど、レース自体は会心というわけではなく、先頭の相澤(晃・旭化成)さんは27分18秒を出していたので、そういうところからは置いていかれたレースだったんです。それでもギリギリのところで27分台を出せたので、この結果でいいって感じでしたし、2区を目指す中、スピード強化の成果としてタイムが出て、気持ちよく箱根に向かうことができたので、ダメージはまったくなかったです」

【無観客の箱根は忘れられない】

 池田は2区を任され、6位で襷を受けた。4位集団から徐々に追い上げ、最後は名取燎太(東海大―コニカミノルタ)と激しい競り合いを演じた。

「順位も上がっていったので、最後の競り合いでは名取君に勝って、前で襷を渡しかったですが、最後はキツくなってしまって‥‥。名取君を始め、西山(和弥・東洋大―トヨタ)君、吉田(圭太・青学大―住友電工)君は同期でインターハイでは全然歯が立たなかったんですが、そういう選手になんとか勝ちたいと思って大学に入って、最後ひとつ形にできたのはうれしかったですね。それに2区で日本人で一番になれたのは、今までやって来たことに間違いがなかったということの証明になりました。チームの結果はもう一つでしたが個人的には、いい走りができたと思います」

 池田が、3度走った箱根駅伝で一番印象に残っているのが、この時の箱根だ。

 この大会を走った選手は、無観客レースという稀有な経験をしており、池田はコロナに振り回された末の箱根駅伝が強く印象に残っているという。

「コロナで合宿など、これまで当たり前に出来ていたことができなくなった中、箱根駅伝でスタートラインに立てたことは、本当にいろんな人のおかげだと思いました。レースは無観客になり、沿道から歓声がなくなって箱根駅伝という感じがしなかったんですが、そういう状況下でも走らせてもらえたということに感謝しないといけないと思いました」

 箱根を走った経験は、池田のその後の陸上人生に、どんな影響を与えたのだろうか。

「最近、大学4年間、20キロという距離をこなしていくことが本当に世界のトップを目指す上で正しいことなのかとよく言われています。僕自身は箱根に魅力を感じて、それを目指し、その舞台でしっかりと戦えたという経験が、より高いレベルで戦いたいという気持ちに変えてくれた。それが今も走っているモチベーションになっているので、僕は箱根を目指して、走れたことは本当に良かったと今も思っています」

後編に続く>>「このままダラダラとトラックをやってていいのか」MGCは辞退もパリ五輪は目指す「2時間3分台は狙えるところにある」