ラグビーワールドカップ2023「Road to France」<10>
ワーナー・ディアンズ(東芝ブレイブルーパス東京)後編

◆ワーナー・ディアンズ前編>>「母からはオールブラックスになれ!と言われていたけど」

 14歳で来日し、今年で在住7年──。ワーナー・ディアンズはどんなラグビー生活を送り、そして日本代表へと昇りつめていったのか。

 ニュージーランドに帰らなかった理由、流通経済大柏での思い出、東芝ブレイブルーパス東京へ加入するまでの経緯など、多感な学生時代の日々を振り返る。

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ワーナー・ディアンズ●2002年4月11日生まれ・ニュージーランド出身

── チームで最高身長のワーナー選手。現在の身長は?

「2メーター超えの202cmです! もう、伸びないと思いますけど(苦笑)」

── お父様はNECグリーンロケッツ東葛でS&Cコーチを務めていたんですよね。

「父(グラントさん)はオタゴ大学の出身で、PR(プロップ)としてプレーしていました。身長は185〜186cmで、体重は130kg(笑)。僕が生まれた頃からウェリントンでコーチをしていて、2004年から(北島の東岸に位置する)ホークスベイのコーチになった」

── お母様(ターニャさん)もニュージーランドで有名人だとか。

「そうすね。ネットボールの元ニュージーランド代表選手で、コーチもやっていました。母も父とほぼ同じくらい身長があったので、ずっと友だちに自慢していました!」

── ラグビーはいつから始めたのですか?

「ホークスベイに住んでいた4〜5歳くらいの時からですね。バスケットボール、水泳、クリケット、サッカー、ネットボール......いろいろやっていました。

 ニュージーランドでは夏にクリケットをやって、ラグビーは冬にやって、練習がない日にはバスケ。ラグビーのポジションは、小学生の時はSO(スタンドオフ)やたまにNo.8(ナンバーエイト)もやっていて、中学校からはLO(ロック)やFL(フランカー)でした」

── 体格は小学生の時から大きかったのですか?

「小学校の時は160cmくらい。中学校2年で日本に来た時は父より小さくて、まだ181cmでした。でもその後、1年間で10cmくらい伸びて、高校入学時は193cm、高校2年生の時に2メーターになったので、日本に来てから20cmくらい伸びましたね(笑)」

── 日本に来てからラグビー1本に絞ったのはなぜですか?

「家の近くにバスケットボールのクラブがなかったし、家から5分のところにNECグリーンロケッツ東葛のグラウンドがあって、そこで我孫子ラグビースクールが練習していたからです」

── 中学卒業後はニュージーランドに戻らず、千葉の流通経済大柏に進学した理由は?

「同じスクールから何人かが流通経済大柏に入ると聞いていたので。一度、練習を見に行って、そこで決めました。

 高校に進学する時、母がオーストラリアのネットボールクラブの強化担当になることになって、妹(カイラさん)は一緒にオーストラリアに行ったんです。場所はケアンズだったので、冬は暑くてラグビーが楽しくないと思って、僕は父と日本にいようかなと(笑)。流通経済大柏は電車と自転車で家から30分の場所でしたし」

── 高校2年生からチームの中軸となり、2年連続で花園ベスト8進出に貢献しました。

「高校 1年の時は花園予選・幕張総合戦の1試合だけ出ました。でも、その後は機会がなく、花園は(スタンドから)応援だけでした。もちろん出たかったですが、まだ足りないところがあると思っていました。 高校2年の時は春の選抜大会や夏合宿でも試合に出られて、成長したんじゃないかなと思います。自分の体の大きさにも慣れてきたって感じです(笑)」

── 高校時代の一番大変だった思い出は?

「一番は......高校2年の夏合宿の時、1日で2試合をやった時ですね。午前中は山本嶺二郎(LO/明治大4年)や本橋拓馬(LO/帝京大3年)など190cmのFWが3人もいる京都成章とやって、すごくいい試合だったんですが、1トライ差でギリギリ負けました。

 午後は常翔学園との試合。為房慶次朗(PR/明治大4年)とか強い選手がいる代で、キックオフから相手がボールキャリーしてトライもポンポン取られ......。結果1トライも取れずに0-100で負けました。

 おかげでその夜、ミーティングが夜の12時まで終わらず、大変でした......(笑)」

── 高校2年の時はLOでしたが、高校3年からNo.8もやっていましたね。

「そうですね。高校3年の時は低いタックルにやっと慣れて、フィットネスもチームで高くなっていたから、練習もちょっとラクになってきて......。そのなかでスキル練習をできたので、うまくなったと思います」

── 高校の恩師・相亮太監督の存在は?

「すごいコーチ。自分を導いてくれた人......という感じですね。セカンドキャリアについてまだそんなに考えていないですが、ラインアウトコーチとか、流通経済大柏に相監督がいたらその下でコーチがしたいですね!」

── 今ではそう言えるほど日本ラグビーに馴染んでいますが、来日した当時はカルチャーショックもあったのでは?

「ニュージーランドの時は、学校が終わったあとの全体練習は週2〜3回で、それも1時間くらい。そのあとにタッチラグビーを30分ほどやって終わり。でも、日本では放課後の16時から19時間くらいまで練習して、その後にウェイトトレーニングもしていたので、終わるのは20時半くらい。

 だから夕食の時間も遅くなって、たまに父が(コーチ業で)遠征していると夕食の準備も面倒くさくて、コンビニでパンとか買って食べていましたね(笑)。でも、相監督の誘いで(監督の家で何人か一緒に)ご飯を食べるようになったので、体重も高校3年の時だけで10kg増えて、115kgくらいになりました」

── そのようなラグビー漬けの生活で、高校の授業にはついていけました?

「日本語の勉強をするために、1日1時間だけは違う教室に通っていました。高校3年くらいから(相手が日本語で)話すことがわかるようになったけど、上達は遅かった。一番好きな授業は体育と歴史。英語の授業では(ネイティブの発音を)先生に『やれ!』って言われたので、僕が先生になっていました(笑)」

── 高校卒業後の進路は、いろいろ悩んだのでは?

「そうですね。ニュージーランドに帰ったらスーパーラグビーチームのアカデミーかクラブチームでやることになるかな......と思っていました、でも、それなら(ニュージーランドで)ゼロからスタートしないといけない。だから、あまり戻りたくはなかった。

 日本で進学するなら『流通経済大に行きます!』と周囲には言っていました。ただ、勉強も好きじゃないし、高校2年くらいから『将来はプロ選手になりたい』という思いもあって......。

 そんなことを考えていた高校3年の頃、東芝ブレイブルーパス東京のトッド・ブラックアダーHC(ヘッドコーチ)と話していると、自分のキャリアや将来をどうしたいのかいろいろ聞かれて......。東芝ブレイブルーパス東京はそれをケアしてくれるし、一番成長ができると思ったので決めました」

── 東芝ブレイブルーパス東京に入って、あらためて成長した点は?

「リーチ(マイケル)さんは日本代表のことをいっぱい知っているし、マット・トッド(元ニュージーランド代表FL)やヨーロッパでの経験豊富なヒュー・パイル(元オーストラリア代表LO)もいろいろと教えてくれました。『いろんな先生がいっぱい!』という感じですね(笑)」

── 高校卒業後にすぐ東芝ブレイブルーパス東京を進んだ選択は......。

「すごくよかったと思います!」

── 将来の目標は?

「ずっと『世界一のLOになりたい』という夢・目標があります。あと、できたら将来は海外のラグビーも経験したいなと思っています。できるだけ多くの経験を積んで、さらに成長して、ベストな状況を作りたいな。

 今、最も行きたいと思っているのはイングランド。FWが強いし、セットピースもすごい。昨季まで東芝ブレイブルーパス東京にいたジョー・マドック・コーチが今季からバースでコーチをやっているんです。昨年の秋に話した時は『すごく時間をかけてラインアウトの練習をやっているから、イングランドに来たら絶対に勉強になる』って」

── ワーナー選手は将来「日本代表のキャプテンもやりたい!」とも話していました。

「日本代表のキャプテンをやるチャンスがあったら、それは正直、やりたいですね。高校時代はキャプテンをやっていなかったですが......(笑)。

 流経大柏時代にキャプテンだった當眞蓮(帝京大3年HO)はずっと静かなタイプでした。FWで一番しゃべっていたのは僕ですね(笑)! 東芝ブレイブルーパス東京ではまだ(キャプテンは)早いと思いますが、チャンスがあったらやりたいです」

── 2035年に再び、日本でワールドカップが開催されるかもしれません。

「12年後......33歳か。チャンスがあったら出たいですね!」

<了>


【profile】
ワーナー・ディアンズ
2002年4月11日生まれ、ニュージーランド・ウェリントン出身。元ラグビー選手の父のNEC(現・NECグリーンロケッツ東葛)コーチ就任に伴い14歳で来日。流通経済大柏高校を卒業後、2021年に東芝ブレイブルーパス(現・東芝ブレイブルーパス東京)に加入する。日本代表歴は2021年11月のポルトガル戦で初キャップを獲得。ポジション=LOロック、FLフランカー。身長202cm、体重122kg。