名物実況アナ・若林健治が振り返る

「あの頃の全日本プロレス」(3)

(連載2:ジャンボ鶴田を変えた天龍源一郎との「鶴龍対決」>>)

 1972年7月にジャイアント馬場が設立した全日本プロレス。旗揚げから2000年6月までは、日本テレビがゴールデンタイム、深夜帯など放送時間を移しながらお茶の間にファイトを届けた。そのテレビ中継で、プロレスファンに絶大な支持を受けた実況アナウンサーが若林健治アナだ。

 現在はフリーアナウンサーとして活動する若林アナが、全日本の実況時代の秘話を語る短期連載。前回のジャンボ鶴田に続く第3回目は天龍源一郎。東京ドームで刻んだ名勝負の実況秘話、天龍の延髄斬りによるスタン・ハンセン失神事件の秘話を聞いた。


1988年3月5日、天龍(左下)の攻撃で失神したハンセン(中央)が怒りの大暴れ

【天龍vsサベージのテーマを「反骨」にした理由】

 若林アナにとって天龍の試合の中で今でも忘れられないのは、1990年4月13日、東京ドームで行なわれた天龍vsランディ・サベージの一戦だ。

 このドーム大会は、「日米レスリングサミット」と銘打たれ、米国のWWF(現在のWWE)と全日本プロレスの共同開催として実現。加えて新日本プロレスも、長州力、橋本真也、蝶野正洋ら主力選手を派遣し、日米3団体による"オールスター戦"の様相となった。

 メインイベントは、ハルク・ホーガンとスタン・ハンセンの一騎打ち。さらにジャイアント馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントのタッグ結成など、注目カードがラインアップされた。その中で天龍は、WWFのトップレスラー、サベージとのシングルマッチが組まれた。

 派手なパフォーマンスが魅力のサベージと、無骨で直線的なファイトが信条の天龍。試合前はファン、関係者の間で「果たして噛み合うのか」と疑問の声が出ていた。だが、試合が始まるとそんな不安は吹き飛び、天龍の攻撃をサベージが天才的なプロレスセンスで受け止める白熱の展開に。結果は、天龍がパワーボムからのピンフォールで勝利し、今でもファンの間で語り継がれる名勝負となった。

 この実況を担当した若林アナは、この試合のテーマを"反骨"と設定したという。

「大相撲からプロレスに転向し、紆余曲折を経て、地方での試合もまったく手を抜かず地道に実績を積んだ天龍さん。対するサベージは、世界の大都会ニューヨークの大スター。華やかなリングでスポットライトを浴びるサベージへの"反骨"が、この試合のテーマだと私は思ったんです」

【自らの不遇への思いも乗せた名実況】

 そこには若林アナ自身の思いも込められていた。この東京ドーム大会で若林アナは、天龍vsサベージを含め、メインイベントのホーガンvsハンセンなど、主要カードの実況を担当するはずだった。

 ところが直前になり、この年の3月限りで「全日本プロレス中継」の実況を勇退した倉持隆夫アナが、ドーム大会の1日だけ復帰することが決定。ホーガンvsハンセンの実況を務めることになったのだ。

「倉さん(倉持アナ)は3月で勇退したはずなのに、ドーム大会ということで復帰してメインの実況を"持っていかれた"んです。『私は常にサブか』と思いました。その自分自身の反骨を、天龍選手に重ねたんです」

 そして生まれたのが、天龍の入場時の言葉だった。

「プロレスは男の詩(うた)だ。心の詩だ。裸の詩だ。励ましの詩だ。生きる詩だ。そして天龍の詩だ!」

 プロレスと天龍への賛歌とも言える熱い実況。この言葉が流れた直後、天龍がジャンパーを脱ぎ捨ててリング上のサベージへ投げつけ、試合は一気にヒートアップした。若林アナはこの実況を、次のように振り返る。

「言葉としては『詩』をキーワードに、いろんな単語を乗っけただけなんです。ただ、その根底にあったのはやはり反骨でした。常にジャンボ鶴田選手の背中を追いかけ、その高い壁を越えようとした天龍選手の反骨。その生き様を表現しようと、私なりに考えた言葉があの実況になりました」

 若林アナは1984年5月から「全日本プロレス中継」を担当して以降、天龍の生き様に心酔していた。特に、1985年1月に新日本プロレスを離脱した長州力が全日本のマットに参戦した時、真正面から長州と勝負した天龍のファイトに心を奪われた。

「天龍vs長州戦は好きでした。何が起きるかわからない。常にピリピリ、ハラハラした緊迫感がありました。あのドキドキ感は、それまでの全日本にはなかった風景でした」

 リング上で文字通り体を張り、闘う天龍本人から、実況に関して抗議を受けたことはなかった。ただ、先輩アナの実況には、こう不満を漏らしたことがあったという。

「先輩の倉持アナが、ジャンボ鶴田、天龍vs長州力、谷津嘉章の選手紹介で『専修大学出身・長州力。日大出身・谷津嘉章。中央大学出身・ジャンボ鶴田』と紹介したんですが、中学を卒業して相撲界に入った天龍選手の時に『天龍源一郎、今日も元気です』と実況したんですよ。

 この試合のテレビ中継が終わったあと、私は天龍選手に呼ばれました。すると『若林、倉持に言っておけ。俺は両国中学出身だ。何か文句あるか』って(笑)。実況で天龍さんがクレームを付けたのは、あれぐらいでしたね」

【天龍の延髄斬りでハンセンが失神→大暴れ】

 東京ドームのサベージ戦の他にも、天龍のWWFのスターとの闘いで忘れられないのは、1988年3月5日、秋田県立体育館での天龍、阿修羅・原vsスタン・ハンセン、テリー・ゴディだという。

この試合、若林アナは実況を務めずサブとして放送席から見ていた。試合は、ハンセンが天龍の延髄斬りを顔面に浴びて失神。30秒ほど大の字で動かなかったハンセンは、蘇生すると場外の天龍を目掛けてトペを敢行し、体当たりで報復したのだ。

「この時、カメラが真正面から突進するハンセンの顔面をドアップで捉えたんです。すさまじい形相で、すごい映像でした。この試合は私でなく、倉持アナが実況したんですが、あのハンセンが失神する衝撃と画面に映った鬼の形相は忘れることができません」

 さらに、この試合が鮮明に記憶に残っている理由は試合後にもあった。失神の屈辱に怒り心頭に発したハンセンは、天龍に制裁を加えるため、体育館のすべての部屋を開け放って暴れまくったのだ。

「放送が終わると、親しい記者の方が『若林さん、部屋に行ったらいけません。ハンセンが暴れているから、見つかったら大変なことになります』と教えてくれたんです。それで私は、日本テレビのスタッフルームに戻らずに体育館を離れました。あんなに恐ろしい思いをしたのは初めてでしたね」

忘れられないハンセンの形相。しかし若林アナには、外国人レスラーでもうひとり、思い出のレスラーがいる。

(敬称略)

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【プロフィール】
若林健治(わかばやし・けんじ)

1958年、東京都生まれ。法政大学法学部を卒業後、1981年に中部日本放送に入社。1984年、日本テレビに入社。数々のスポーツ中継を担当するほか、情報番組などのナレーターとしても人気を博す。2007年に日本テレビ退社後は、フリーアナウンサーとして活躍している。