野球人生を変えた名将の言動(10)

篠塚和典が語る長嶋茂雄 後編

(中編:ルーキー原辰徳がセカンド→控えの篠塚和典に長嶋茂雄が「腐るなよ」>>)

 篠塚和典氏に聞く長嶋茂雄監督とのエピソード。後編は長嶋監督の"直感"野球、引退を決断した際のやりとりなどを聞いた。


2期合計で15年、巨人の指揮を執った長嶋茂雄氏

【直感的な采配に「えっ!?」】

――長嶋監督の野球を、言葉で表現するとしたら?

篠塚和典(以下:篠塚) 試合展開によって当然いろいろなことを考えているとは思うのですが、やっぱり"直感"という言葉になりますね。「動物的な勘」という感じです。選手交代などでも、「えっ!?」と思う場面が多々ありましたから。

――たとえば、どんなことがありましたか?

篠塚 序盤で先発ピッチャーが打ち込まれている試合だったのですが、ピッチャーに打席がまわる前にミスターが「ピッチャーを代えるから、代打用意しとけよ」と。あの時は、柳田俊郎さんや山本功児さん、原田治明さんら、代打で呼ばれる可能性があるバッターが何人かいましたが、そんななかで僕も準備をしようとしたんです。

 そうしたら「いや、シノは準備しなくていい」と言われたので、「自分の出番はないんだな」と思うじゃないですか。だけど、代打のタイミングでベンチから出ていったミスターが「篠塚」って言ったんです(笑)。僕はまったく準備していませんでしたから、慌てて手袋をしたり準備をし始めて、ネクストバッターズサークルで2、3回バットを振っただけで打席に入りました。

――結果はどうでしたか?

篠塚 打てるわけがないですよ(笑)。結果は凡退でした。ただ、そのことをきっかけに、「常に準備しておかなきゃいけない」と意識するようになりました。その時はミスターの頭のなかに僕の名前が突然浮かんじゃったのか、真意はわかりませんけど、「今後も同じようなことがあるだろうな」と。

――これまでのお話(前編・中編)で、長嶋監督の突拍子もない発言や行動に対する篠塚さんの柔軟なリアクションを聞く限り、おふたりは相性がいいような気がします。

篠塚 相性がいいのかはわかりませんが、僕が思っている以上に、ミスターは意外と僕のことを思ってくれていたのかなとは感じます。節目節目で電話をかけてきてくれて、声をかけて励ましてくれましたし、常に気にしてくれていたんだなと。僕が現役を引退する時も、ちょうどミスターが第二次政権(1993年〜2001年)で指揮を執っていたので、その話もしました。

【現役引退の年にミスターに「やらせてしまった」こと】

――どんなやりとりがあったんですか?

篠塚 当時は、ちょうどセカンドのポジションが世代交代される時期でした。ただ、自分としてはプロ入り19年目だったので、「20年はやりたいな」という思いがあったんです。

 僕は日本シリーズで西武と対戦して日本一になった年(1994年)に現役引退となったんですが、シリーズが始まる時にミスターに呼ばれて話をしたんです。自分としてはもう少し現役を続けたいこと、引退するのであれば「今年で辞めます」と前もってファンのみなさんに宣言した上でプレーしたいということを伝えました。

 ただ、ミスターの立場としては次のセカンドを育てていかなきゃいけない。それで「日本シリーズが終わったら、また話をしよう」となったんです。それで日本一になった日、ミスターから再び呼ばれた時に、僕から引退する意志を伝えました。

――篠塚さんから伝えたんですね。

篠塚 シリーズ開幕前にあのような話をするっていうことは、「『もう、いいだろう』ということだろう」と感じていましたから。逆に「もう1年やってみないか?」ということであれば、そういう話もしてこなかったでしょうし。

 その年は、僕のバッティングの状態が悪い時にミスターが早出で状態を見てくれたりしたのですが、ベテランの自分が「やらせてしまった」という気持ちになって。ミスターに変な気を使わせてしまったなと。そういうこともあって、「今年で引退します」という話をしたんです。

――長嶋監督からは、どんなことを言われましたか?

篠塚 「ユニフォームを脱いだあと、どうするんだ?」と聞かれたので、「野球はもちろん、ほかのスポーツも含めて、ちょっと外から勉強したいです」と答えました。ミスターが第一次政権を終えたあとにプロ野球の解説をはじめ、幅広い分野で活動されていましたが、僕もそのようなイメージを持っていたので。

 でも、秋のキャンプの時期にミスターから電話がかかってきたんですよ。「来年、守備のコーチをやってくれないか? シノもいろいろ相談する人もいるだろうけど」って。「いや、そんなことはないです」と言いましたけどね(笑)。それで引き受けたんです。

【プロ入り前に見た篠塚のプレーは「1打席だけ」だった】

――篠塚さんの野球人生と長嶋監督は、切っても切り離せないほどの深い関係がありますね。

篠塚 たぶんミスターがいなかったら、これだけ長く野球をやっていなかったと思います。ドラフト会議で周囲が反対するなか、ミスターが自分を指名してくれて、「恥をかかせちゃいけない。恩返しがしたい」という強い思いが原動力になりましたから。

――アスリートは自分のキャリアのことを考えるのが常だと思いますが、他人への思いが原動力になるというのも珍しいように感じます。

篠塚 チームが強くなっていくための要素って、いろいろあると思うんです。そのなかで、選手みんなが「この監督のために」と思ったら、やっぱりチームは強くなりますよ。

 僕の場合は、高校時代に病気(肋膜炎)を患って体に不安を抱えていたのに指名してくれたわけで、僕が大成しないで終わるようなことであれば、ミスターに恥をかかせることになってしまう。苦しい時も、その思いがあったから乗り越えられたと思います。

――長嶋監督が篠塚さんの指名を決めたのは、当時高校2年生だった篠塚さんが銚子商で夏の甲子園(1974年/銚子商が優勝)に出場された時のプレーを見たことがきっかけですよね?

篠塚 そうなのですが、「1打席しか見ていない」と言っていましたよ(笑)。中京商との試合で、レフト前にヒットを打ったそうです。

――そこでも、長嶋監督の"直感"が働いたんですね。

篠塚 瞬間的に「これはいい」と思ったんでしょうね。僕も高校野球を見たりしていて、「この選手はなかなかいいな」と思う時がありますが、同じような感じなのかなと思います。

 ただ、僕の体のことはやっぱり心配されていたようで、ミスターは僕が入院していた病院の院長のところに電話をして、「体はどうなのか?」と確認を取ったみたいで。院長は「もう全然大丈夫ですよ」と伝えたそうです。

 その時にミスターは、院長に「他の球団から連絡がきたら、『篠塚はまだ体がダメだ』って伝えてください」とお願いしたらしいんですよ(笑)。そういう"根回し"もしていたんですね。そんな方だからこそ、「ミスターのために」という思いも強くなったんだと思います。

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番打者などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。