ジャイアント馬場は言った「UWFは人に見せるものじゃない」 全日本プロレスの名物実況アナが振り返る馬場の哲学
名物実況アナ・若林健治が振り返る
「あの頃の全日本プロレス」(1)
昨年に旗揚げ50周年を迎え、新たなスタートを切った全日本プロレス。1972年7月にジャイアント馬場が設立し、多くの日本人トップレスラーを輩出しただけでなく、豪華な外国人選手を招聘してリングを華やかに彩った。
旗揚げから2000年6月までは、日本テレビがゴールデンタイム、深夜帯など放送時間を移しながらお茶の間にファイトを届けた。そのテレビ中継で、プロレスファンに絶大な支持を受けた実況アナウンサーが若林健治アナだ。プロレスファンであることを公言し、レスラーの思いを代弁する熱い実況は、ファンのハートをわしづかみにした。
ハンセン(左)など豪華レスラーたちと、多くの名勝負を繰り広げた馬場
若林に馬場への思いを聞くと、ひと言、即答で返って来た。
「馬場さんは私にとって"神"です」
日本プロレス中継をテレビで見た小学生時代、白黒テレビの画面に映った馬場のファイトに心を奪われた。身長2m9cm、体重145kgの巨体でフリッツ・フォン・エリック、ザ・デストロイヤー、ディック・ザ・ブルーザーら屈強な外国人をなぎ倒す馬場は、若林にとってまさに神がかり的な大スターだった。
「日本プロレスの中継は、毎週金曜の夜8時からでした。その時間が近づくと、私はお茶菓子を用意して、テレビの前に正座をして待っていたんです。正座をして見たのは、『正座をしないと馬場さんが負けてしまう』と思っていたから。それぐらい、私にとって馬場さんは崇高な存在だったんです」
当時、インターナショナルヘビー級王者だった馬場。絶対的な強さを誇っていたが、外国人の強敵に敗れることもあった。
「馬場さんが負けた時はショックでしたね。あまりの衝撃に私は、翌日は学校に行かなかったんです。馬場さんが負けたショックで登校拒否をしました」
少年時代に、それほどまで心酔していた馬場と若林が出会う時が来る。
若林は1981年に法政大を卒業し、愛知県のTBS系列「CBC」に入社。そこを3年で退社して1984年4月に日本テレビに入社すると、翌5月に担当した番組が「全日本プロレス中継」だった。
担当が決まり、初めて試合会場に向かった。場所は後楽園ホール。そこでプロデューサーに連れられ、馬場にあいさつをした。"神"とまで憧れた人物との初対面で、若林はあいさつをすると同時に、子供の頃からどれほど馬場の試合に熱中していたか、プロレスが好きだったかを話したという。
「馬場さんは、私の話を黙って聞いているだけでした。ただ、この日の試合が終わって会場から帰る時に、元子夫人に呼ばれたんです。すると元子さんが『馬場さんが言ってたわよ。あの子はプロレスが好きだって』とおっしゃってくださったんです。それは嬉しかったですね」
プロレスの情熱をそのままマイクにぶつけた若林の実況は、次第にファン、関係者に認められていった。しかし、憧れの馬場の試合を実況する機会は少なかった。
理由はふたつ。まずひとつは、若林が「全日本プロレス中継」を担当した1984年当時、チーフアナウンサーは倉持隆夫が務めていたこと。テレビで放送されるのはだいたい3試合で、セミファイナル、メインイベントはチーフの倉持が担当するため、馬場が出場するメイン級の試合を任せられることはなかった。
もうひとつは、若林が担当した頃から馬場がメインクラスの試合から離れ、テレビ放送される試合への出場が少なくなったこと。さらに、放送時間が1985年10月から土曜夜7時からになると、馬場は解説者を務めたため、選手として画面に登場する機会が激減した。
馬場の試合を実況する機会は少なかったが、アナウンサーと解説者として若林は馬場のプロレス観に間近で接することができた。
「馬場さんは、プロレスで最も大切なことは『受け身』だ、とおっしゃっていました」
相手の技を真っ向から受け止めることがプロレスの醍醐味。その「受け身」の技術があってこそ、観客はレスラーが繰り広げる攻防に熱狂する。
1980年代後半は、前田日明が設立した「新生UWF」が絶大に支持された時代だった。キック、関節技を駆使する格闘技スタイルのプロレスは、相手の技を受け止めずに攻めることで"強さ"を訴えるプロレスだった。
「受け身を大切にしていた馬場さんは、当時、あれだけ人気があったUWFについて『あれは、人に見せるものじゃない』とおっしゃっていました。『ああいうものは、自分を守るために身につけるもの。俺だってできるんだぞ』と」
馬場から「俺だってできる」という言葉を聞いた若林は、のちにそれを体感することになる。当時、早稲田大の学園祭に呼ばれた馬場は、司会を務めた若林にスタンディング式アキレス腱固めを極めたのだ。
「1回目はまったく痛くありませんでした。すると、2回目はポイントを5ミリぐらいズラして固められたんですが、すさまじい激痛が走りました。馬場さんは、極めるポイントを知っていたんです」
プロレスの極意を体で教えられた若林が、万感を込め、馬場を実況した試合がある。
1992年10月21日、日本武道館で行なわれた旗揚げ20周年記念特別試合。馬場がスタン・ハンセン、ドリー・ファンク・ジュニアと組み、テリー・ゴディ、アンドレ・ザ・ジャイアント、ジャンボ鶴田と対戦した6人タッグマッチだ。
全日本プロレスの歴史に偉大な功績を刻んだレジェンドたちが揃った豪華6人タッグマッチは、6人がそれぞれのテーマソングに乗ってひとりずつ入場した。
大トリで、馬場が『王者の魂』が流れる中で花道に現れた時、若林は「昭和35年9月30日、ひとりの偉大なレスラーがデビューしました」と足跡を辿った。そしてコール時には、「世界の巨人、ジャイアント馬場!キング・オブ・スポーツ・プロレス。そしてキング・オブ・プロレス・ジャイアント馬場! あの16文キックでレスラーの喜び、怒り、悲しみを僕らに教えてくれました」と、自らの少年時代を重ね合わせるように実況した。
「あの時は、入場で6人を実況しなくてはいけなかったので、前日は徹夜で資料を作りましたよ。馬場さんを実況できることは、私にとって特別でした。何しろ、子供の頃の私はジャイアント馬場になりたかったんですから。これ以上の幸せはありませんでした」
馬場はそれから約7年後、1999年1月31日に61歳で急逝した。しかし今も若林の中では、あの日に実況した誇りが消えることはない。
(敬称略)
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【プロフィール】
若林健治(わかばやし・けんじ)
1958年、東京都生まれ。法政大学法学部を卒業後、1981年に中部日本放送に入社。1984年、日本テレビに入社。数々のスポーツ中継を担当するほか、情報番組などのナレーターとしても人気を博す。2007年に日本テレビ退社後は、フリーアナウンサーとして活躍している。