ドラゴンズ黄金期の名外野手

英智インタビュー 前編

 ドラゴンズファンにとって英智(ひでのり/46歳)は、記録よりも記憶に強く残る選手だった。

 1998年にドラフト4位で入団すると、2004年からの落合博満政権では強肩・俊足の外野手として、チームに欠かせないピースとなり全盛期のドラゴンズを支えた。2012年に現役引退後は、10年もの間、コーチとして後進の育成に腐心した。

 ドラゴンズひと筋24年、今年からは解説者として外からチームを見守る英智氏に、なぜ落合時代のドラゴンズは強かったのか、そして自身も選手時代から強い憧れを抱いていたという、落合監督との秘話について聞いた。


中日監督時代の落合氏(右)に迎えられる英智氏

【落合博満の監督就任に感じた嬉しさと戸惑い】

――2004年に落合監督が就任して以降の8シーズン、チームは全シーズンAクラス、4度のリーグ優勝を達成しています。あらためて、なぜあれだけ勝てたと考えますか?

英智:ひとつは、単純にタレントが揃っていたことが大きいと思います。センターラインに谷繁元信さんに井端弘和さん、荒木雅博さんがいて、4番にはタイロン(・ウッズ)や(トニ・)ブランコがいた。

 その戦力に慢心することなく、とにかく練習量も多かったですね。いろんな監督の下や、コーチとしても見てきた中で、技術を伸ばすという点だけではなく、単純な"量"はあの時代が一番でした。それもベテランの方がすごく練習をするので、そこに若手もついていく。やっているほうはもちろんキツイんですが、当たり前にその量をこなしていたんです。

――英智さんは落合監督への憧れが強かったと聞きます。そんな憧れの人物が監督に就任する、というのはどんな感覚だったんでしょうか?

英智:嬉しさもあったんですが、それに加えて戸惑いもありましたね。僕自身がドラゴンズファンということもあり、落合さんの選手時代もリアルタイムで応援していた。そんな経緯もあり、落合さんが監督になると聞くと、緊張してちょっと固まってしまうというか。萎縮してしまう、という言い方が一番正しい気もします。

 結局、最初から最後までそうでしたね。去年にコーチを退く時に報告の電話をしたんですが、その際もやはり緊張してうまく喋れなかったくらいなので(笑)。

【「お前ならあれくらいは捕らないとな」】

――その緊張感というのは、英智さんの野球人生においていい方向に作用したんでしょうか。

英智:間違いなくいい方向に出たと思います。実際に多くの出場機会を与えてもらい、コーチまでやらせてもらった。それはやはり落合さんの下で野球を学び、考える力がついたことが大きいですね。

 本来なら、求められる答えを自分で用意するのではなく、「僕はこういう風に思ってます。どうしたらいいでしょう?」というように、距離感を縮めるために飛び込んでいけたらよかったんでしょうが、残念ながらそういう機会はなかったです。最初は選手と監督、そして落合さんがGMになられてからはGMとコーチ、という関係になっても距離感はずっと変わらなかった。ただ、直接的な言葉にしなくても、そういう振る舞いや選手との接し方についても落合さんから学んだことはたくさんあります。


インタビューに応じた英智氏 photo by Kurita Shimei

――2004年シーズンに英智さんがフライを落球した際、落合監督が「あいつが捕れなきゃ誰も捕れない」とコメントを残したことが印象に残っています。

英智:僕が落合さんに言われた言葉で印象的なのは、「使うのはこっちだから、お前らがミスしても俺の責任だから気にするな」ということでした。選手はどうしてもミスを引きずるし、僕もそのタイプで切り替えが下手だったんです。ただ、それ以降はミスしてもこのキーワードが頭にあるので、気持ちはずいぶん楽になりましたね。

――その後、選手と監督としての距離感や、信頼関係は少しずつ変化していったんでしょうか?

英智:どんな職場でもそうだと思いますが、仕事を一緒にする年数が経ち、信頼関係ができてくると立場も変わり、落合さんの中で「お前はこれくらいはやってもらわないと」という計算や見込みができてきたとは思います。

 具体的には、最初の2、3年は何も言われずに、5年が経った頃くらいかな。今度は「お前ならあれくらいは捕らないとな〜」という風に変わってきた。僕は個別に声をかけられることが多いほうではなかったですが、ミスによって計算が狂っただろう時は、落合さんに話しかけられました。そういった意味では、落合さんに計算してもらえるようになるまで、5年の歳月が必要だったということかもしれません。

【落合流の選手の花の咲かせ方】

――具体的にチームの中で英智さんが求められていたことは、どういった役割だったと感じていましたか?

英智:ドラゴンズの勝ち方については、当時の選手たちは多かれ少なかれ体感として理解していました。当然ですが、選手や状況によって求められることは違った。例えば守備固めや代走、バントなどサブとして出場する時なんかは、ベンチメンバーはみんな試合の展開を読み、「次の回、お前あるぞ」と自分たちで考えて準備をしていた。ほぼ全員がそうでしたし、いい準備が出来ていないと試合に使ってもらえません。

 その予測はだいたい当たるんですが、時々びっくりするような采配もありました。ただ、僕らが理解できなくてもしっかり理由があって、そういう時は監督から後で説明があるんです。それを聞いて納得する、というような。

 だから常に頭をフル回転させていたし、準備が足りずに失敗すると後悔がすごく残るんです。あの時のチームはそれが当たり前だと感じていたし、ひとりひとりが役割を全うする中で、考えて野球をするという力が自然と身についていきました。

――「一芸に秀でた選手になれ」という言葉は落合野球の代名詞であり、英智さんもそれに当てはまる部分が多かったかと思います。

英智:「打てて、守れて、走れる」みたいな選手はもちろん理想で、みんながそこを目指すんですが、プロの世界でそれができるのはひと握り。それをサポートする選手がいないと、チームは機能しません。1軍の試合に出て、チームに貢献するためには、僕の場合はまずは守ること。ここを求められていたし、伸ばしてきた。今の子たちを見ていると、そういった適正を見極める前にいろんなことをやりすぎているのでは、と感じることもあります。

 落合さんはその選手が花を咲かせるために「どんな水のやり方をして土を肥やすか」「太陽の光はどれくらい必要か」ということを就任時に示してくれた面がある。まずはプロとして生き残るために専門分野を作ること。それができたら仮に打てなくても、日の目を浴びられるのではないか、という意欲が出てきた。目標が明確になったからこそ、練習に取り組む意識も変わったし、長くプロでやれたんだと思います。

――選手時代、最も印象に残っているのはどのシーズンでしたか。

英智:ひとつと言われると難しいんですが、日本一になった2007年ですね。あのシーズンは、レギュラーシーズンの出場機会は多かったですが秋に怪我をしてしまい、日本ハムとの日本シリーズには全く絡めなかった。チームの日本一はもちろん嬉しかったですが、個人的にはそこに貢献できない悔しさがすごくあって......。

 そういう意味では、落合さんの監督としてのラストシーズンとなった2011年も、チームが逆転優勝して日本シリーズに進む中、ソフトバンクの日本一を前に自分は何も出来なかった。不思議なもので僕の野球人生を振り返ると、そういった悔しい思い出の方が鮮明に覚えているんですよ(笑)。

(後編:福留孝介や荒木雅博らに感じていた「感覚の近さ」 今のドラゴンズが「変化していく上で必要」な期待の若手も語った>>)

【プロフィール】
英智(ひでのり)

1976年5月9日、岐阜県生まれ。県岐阜商から名城大に進み、1998年に中日からドラフト4位指名を受け入団。2004年にゴールデングラブ賞を獲得し、代走、守備固めなどでも活躍。2012年限りで現役を引退し、ドラゴンズ二軍の外野守備・走塁コーチに就任。その後も各カテゴリーのコーチとして後進を育てた。今年からは解説者として活躍している。