「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第29回 松岡弘・後編 

(前編「ドラフト指名しながら『やっぱ、いらない』。その屈辱がヤクルトの大エースを作った」を読む>>)

「昭和プロ野球人」の貴重な証言を過去のインタビュー素材から発掘し、再び光を当てるシリーズ連載。1967年、サンケイ(現・ヤクルト)にドラフト5位指名されながら一方的に交渉を打ち切られる憂き目にあった松岡弘(まつおか ひろむ)さんは、実力で球団を翻意させ、シーズン途中で異例の入団を果たす。

 入団後は指導者にも恵まれて頭角を現し二桁勝利のシーズンが続くなか、松岡さんは名将・三原脩監督から1972年シーズン終盤に思いもよらぬ指令を受けた。神宮球場のマウンドに君臨した長身エースに、いったい何が命じられたのだろうか。


100勝目を挙げた松岡弘を出迎える広岡達朗監督(写真=産経ビジュアル)

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「17勝した年、順位が4位に決まった10月の初めだったか。まだ10試合残ってるのに、三原さんから『グラウンドに一切、顔を出すな』って言われたの。

『何で?』って聞いたら、『おまえ、来たらすぐ練習するから。もうこれだけ投げてんだから、体を温存するために来年の2月1日まで、一度でも俺の前に顔を見せたら罰金だぞ』って。要は、300イニング投げたところで、もう休めと。これは21勝した年もそうだった」

 いわゆる消化試合で、ただ単に若手に切り替えるのとは違う。実際、エースのみならず、武上四郎をはじめとする主力野手も強制的に休ませたそうだが、「罰金」を持ち出すほどに極端な徹底ぶりがすごい。クライマックスシリーズがあるために消化試合が減少した今では想像もできないだけに、チーム作りにおけるスケールの大きさが感じられる。

「登録を抹消されて、ファームに行くのもダメ。何もできないから、武上さんとゴルフばっかり行ってたよ。俺が肩の筋肉なんかを痛めなかったのは、三原さんのおかげだね」

 三原が就任した71年からの順位は6位、4位、4位。[魔術師]も73年限りで退任したがチーム作りは進み、打っては若松勉、守っては捕手の大矢明彦が主力となり、20勝エースが誕生した投手陣では左腕の安田猛も台頭。チーム名がスワローズになった74年は、荒川博(元・毎日ほか)が監督に就任して3位に浮上する。

 翌75年には強打者の大杉勝男が日本ハムからトレードで加入、76年からは助っ人のチャーリー・マニエルも中軸に加わり、徐々に「78年の優勝メンバー」がそろいつつあった。が、チームは開幕から不振で荒川が5月に休養。ヘッドコーチの広岡達朗が代行を務め、6月から正式に監督になった。

 放任主義の荒川とは打って変わって、広岡は77年の春季キャンプから厳しい方針を打ち出し、酒、麻雀、花札、ゴルフ、ユニフォーム姿の喫煙、練習中の私語が禁止された。松岡さんによれば、「ベテランまで押さえつけられてみんな反発した」という。

 それでも投手では鈴木康二朗、野手では水谷新太郎、杉浦亨の成長もあり、チームは球団史上初の2位に躍進。手応えを感じた選手たちは、広岡への反発心でひとつにまとまっていた。ただ、松岡さんは9勝に終わり、二桁勝利が6年連続で途切れた状態で翌78年を迎えた。

「俺、その年は5月が終わるまでに3勝してた。でも、広岡さんが『おまえはこんなもんじゃない。もっと勝てる』って俺をおだててね。あの人には心技体の技を叩き込まれたんだけど...」

 はじめからずっと穏やかな表情だった松岡さんだが、眉間に深くシワを寄せて言った。

「広岡さんが言うにはね、体の使い方次第では、相手が余計に嫌がる、角度のある、キレのあるボールが投げられるって。だから『俺の言うこと聞け』と。でもこれ、自分がある程度、ピッチャーとしてできあがったときに言われたから、『嫌だ』と。腹ん中では『何言ってんだ、この野郎』と思ってたんだけど、『嫌ならいいんだ、投げさせないよ』って脅しをかけられてさ......」

 反発した松岡さんに対し、投手コーチの堀内庄(しょう)がフォローした。巨人で広岡と同僚だった堀内は「言うこと聞かねえと投げさせてもらえねえから、言うこと聞いたフリしろ」と助言。

 実際に言うとおりにすると、6月1日の中日戦で4勝目を挙げたあと、7月の頭まで1ヵ月間、故障でもないのに松岡さんの登板はなかった。文献資料には〈一軍に帯同したままミニキャンプを張らされた〉とあったのだが、それはいったいどういうものだったのか。

「試合前にシャドーピッチング。1時間なら1時間、30分なら30分、広岡さん、俺に付きっきりだよ。だからまだ納得してやれたんだけど、試合が始まったら途中でブルペン入って。そればっかり毎日。一本足で、軸足で立つ練習だけはほんとに毎日やったな」

 広岡が重視したのは、体の芯をずらすことなく、力を抜いてでも力が出る体の使い方だった。球数多く、スタミナを消耗しやすいフォームが改められた。そのための第一が軸足でしっかり立つことだった。

「軸足でピーンと立って、そのときにパッと、ピッチャーがバッター見たら、バッターは怖がるって。立ったときにふにゃふにゃしてたら、全然、怖がらないって」

 座ったままの松岡さんだが一瞬にして背筋がすっと伸び、頭がキリッと左に動いた。眼鏡の奥の眼差しは、今まさにマウンドから見下ろしている、としか思えないほど険しかった。

「それで7月の中日戦、『もういいから投げるか?』って。久しぶりだから精神的に疲れたし、だいぶ打たれたけど何とか勝てた。それからだね。最後になって俺がガンガン投げて、みんなで優勝に向かっていけた」

 来日1年目のヒルトンが機能し、日本記録となる129試合連続得点を達成した充実の打線も大きかった。巨人との優勝争いになったシーズン終盤は、9月に6勝を挙げた松岡さんの大活躍が何より光った。ミニキャンプを張らせた監督の狙いは、まさにエースが最後まで力尽きないようにすることにあった。

 そして、マジックナンバー1で迎えた10月4日の中日戦、ヤクルトは球団創立29年目で初のリーグ優勝を果たした。この試合、松岡さんは完封勝利を挙げている。

「9対0だったけどね。それに広岡さん、いちばん信頼してたのは安田だから。勝てば優勝っていう巨人戦にいったのも安田だったけど、負けて最後、俺になった。日本シリーズも最後、俺とは思わなかったな」

 4勝3敗で阪急(現・オリックス)を制した日本シリーズでも松岡さんはエースらしく、2勝2セーブを挙げる大活躍。しかし第1戦は安田が先発し、中3日で第4戦も安田。ということは本来、第7戦も中3日で安田になる。

 もっとも、第1戦の安田は7回1/3を投げて6失点で敗戦投手、第4戦はわずか1回2/3を投げて4失点で降板している。監督としては、最後の決戦、結果が出ていない投手は使いづらかったのではないか。

「だから『おまえしかいないな』っていう話よ。『おまえに託した』とは言われてない。ただ、先発って言われたときは驚きもしねえ。何しろ疲れちゃって! 体力がない、気力もないの......。でもこの試合、最高のピッチングできたからね。

 完ぺきに力が抜けて、いい球がいく。相手バッターに対して、こういうボールを投げれば打たれない、打たれてもこのぐらいになるな、っていう気持ちだけでほうってるから。もう無我夢中でさ、抑えなきゃいけないっていう気持ちはなかった」

 にわかに口調が早まり、勢いづいていた。

「あのとき、いいボールがいくと、またいいボールを投げようとすることもなかった。何というか、無欲の欲だね。ミニキャンプで体を使って勉強して、体感したことが、最後に集大成で出たんじゃないの? だから今は広岡さんに感謝してる。

 それで6回に大杉さんのホームランが出て2対0になったけど、ファウルかどうかでもめたでしょ? あれで俺、ほんとに助かったの。いいピッチングはしていても疲労困憊だったから」

 神宮球場は大学野球のため使用できず、同年の日本シリーズ、ヤクルトのホームゲームは後楽園球場で行なわれた。そのレフトポール際に飛んだ大杉の打球がホームランとされた判定を巡り、阪急監督の上田利治が審判に猛抗議。試合は1時間19分も中断して再開したが、打たれた阪急先発の足立光宏は降板。松岡さんは続投した。

「試合が中断したとき、これでちょっと休めるかなと思った。30分経ったときには、もうちょっと休ませてくれと思ってた。それが40分、50分と経ったときには試合やるんでもやめるんでもどっちでもいい、という感じになってたけど、結局、1時間以上も休めたからホッとしたよ」

 しかし、それだけ長い中断だと肩を冷やすなどと言われるが、大丈夫だったのだろうか。

「キャッチボールだけ、ずーっとしていたから。キャッチボールしてたら体が落ち着くんだ、リラックスできるから。今思うと、そのまま試合を続行してたらたぶん逆転されてるね。だからあの中断は、僕にとっては天から授かった休息。休んだら、またビンビン投げられた」

 大杉の後、マニエルも二番手の松本正志からソロ本塁打を放ち3対0。8回には大杉が2打席連続、今度は文句なしの打球を左中間スタンドへ打ち込み、4対0で日本一。4本塁打10打点の大杉がMVPに選ばれた。

 一方で松岡さんは、7安打されながら最後までひとりで投げきって完封勝利。日本プロ野球史上、同年のリーグ優勝と日本一を決めた試合、どちらも完封した投手は松岡さんしかいない。

「両方とも、大きな財産だね。特にシリーズは、生涯最高のピッチングができた」


プロ野球史に残る猛抗議を「あれで助かった」と笑う取材当時の松岡さん

 取材場所のマンションの集会室は飲食できないため、お茶も飲めない状況で2時間が経過していた。あらためて191勝で終わったことを尋ねると、「200勝はできると思っていた」が、首を痛めて断念せざるを得なかった。痛みの原因は緊張で頚椎(けいつい)の神経が圧迫されていたことで、引退してホッとした途端、治っていたという。〈仕方ないよ〉は本心でしかなかったのだ。

 取材を終えて仕事場に戻ったあと、1978年の日本シリーズ第7戦が10月22日に行なわれていたことに気づいた。偶然か必然か、37年後の同じ日、68歳になった胴上げ投手に会うことができた。

 むしょうに当時の映像が見たくなり、積み上げたディスクの束から〈上田監督 1:19〉と記した一枚を引っ張りだした。15年ほど前、CS放送のスポーツチャンネルで第7戦をすべて、中断部分も含めて録画が放映されたものだ。

 試合中断となって10分ほど経った頃、松岡さんが一塁側ベンチ前でキャッチボールする姿に画面が切り替わった。スコアボードと外野スタンドをとらえるほどカメラがローアングルだから、ウインドブレーカーを着て投げる長身の松岡さんがより大きく見える。逆光気味で表情はわからなくとも、ゆったりとしてダイナミックなフォームはエースの勇姿そのものだった。

(2015年10月22日・取材)