「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第29回 松岡弘・前編 (シリーズ記事一覧>>)

 今ではありえない内容も多い「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る人気シリーズ。通算191勝を挙げたヤクルトスワローズの大エース・松岡弘(まつおか ひろむ)さんは、区切りの200勝にあと一桁と迫りながらユニフォームを脱いだ。

 高校から社会人野球に進んでドラフト指名を受けながら、入団はシーズン途中になってしまった経緯も波乱万丈。けっして"誰もが注目するスター選手"ではなかった松岡さんは、どのようにして実績を積み上げ、エースの座を掴み取ったのだろうか。


1978年、ヤクルト初優勝を決めて飛び上がる松岡弘(写真=産経ビジュアル)

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 松岡弘さんに会いに行ったのは2015年10月。きっかけは西武のベテラン右腕、西口文也だった。長年、チームの投手陣を支えてきた元エースが、通算200勝まで残り18勝で引退すると知って、取材を思い立った。松岡さんもまた、200勝目前で退いていたのだ。

 1968年からヤクルト一筋で18年間プレーし、78年にはエースとして球団初のリーグ優勝、日本一に貢献した松岡弘さん。プロ16年目の83年には11勝を挙げて190勝に到達したのだが、翌84年は1勝に終わる。そして85年は8試合に登板するも0勝2敗に終わり、同年限りで投手人生の幕を閉じている。

 通算660試合に登板して191勝190敗、41セーブ、防御率3.33。134完投、30完封で投球回数は3240回に達し、奪三振は2008。見事な数字を残した松岡さんだが、最晩年はまだ38歳だった。それだけに、残り9勝と迫っていた200勝にはかなりの未練があったのではないか。文献資料を紐解いてみると、まさに......と思える松岡さんのコメントが載っていた。

〈9勝を残して引退は残念だが、力の世界、仕方ないよ〉

 引退決断のきっかけを語る記事の言葉だが、〈200勝〉という文字はどこにもない。いきなり〈9勝を残して〉と発しているあたり、200勝することが大前提、という感じが伝わってくる。これには松岡さんが活躍した時代も関係していたと思う。

 1977年の鈴木啓示(元・近鉄)以降、80年の堀内恒夫(元・巨人)、82年の山田久志(元・阪急)、江夏豊(元・阪神ほか)、83年の平松政次(元・大洋)、84年の東尾修(元・西鉄ほか)と、ほぼ毎年のように200勝投手が誕生していた。いずれも、47年生まれの松岡さんと同年代もしくは歳が近いだけに、「俺だって」という気持ちは強かったはずだ。

 当時とは投手の起用法が変わり、200勝投手が生まれにくい今の時代の西口とは置かれた状況がたいぶ違う。現に西口は、182勝で終わったことについてこう言っている。

〈悔いはない。プロに入るときはここまで勝てるとは想像もしてなかった。自分のなかで"やりきった"と思えるから清々しい気分。解放感しかない〉

 本当にそうなのだろう。しかし松岡さんの〈仕方ないよ〉は本心だったのかどうか──。そんなことを考えながら、取材の準備を進めた。僕自身、小学生のときから現役時代のプレーを見ていたが、調べてみると知らないことのほうが多かった。

 東京・世田谷にある松岡さんのご自宅、マンションの集会室が取材場所となった。2週間前にヤクルトがリーグ優勝を決め、クライマックスシリーズも突破して日本シリーズ開幕は2日後。初優勝に貢献した元エースに会うタイミングとしては絶妙と思えた。

 エントランスまで出迎えてくれた松岡さんは、水色のジーンズにダークグレーのボタンダウンシャツを裾出しで合わせていた。そのスタイルは186センチという長身にぴたりと合い、スリムな体型とあいまって68歳(当時)という年齢を感じさせない。挨拶をするとアーチ状の眉の下、眼鏡の奥で目尻が下がった。

 集会室はさまざまな植物で緑いっぱいの中庭を臨む全面ガラス張りの部屋で、大人4〜5人で使うのにちょうどいい大きさの丸テーブルがひとつ置いてある。名刺を交換して面と向かったあと、「ヤクルトの優勝もきっかけになりまして」と僕が言うと、松岡さんは甲高い声で笑った。さらに西口の名前を出して取材主旨を説明すると、足を組んで言った。

「そうだねえ、西口。でも秋山さんもそうだし。長谷川さんなんか197勝だよ」

 1956年から大洋(現・DeNA)で活躍し、60年の初優勝と日本一に貢献した秋山登は実働12年で通算193勝。[小さな大投手]と呼ばれ、50年の球団創設時から広島を支えたエース長谷川良平は実働14年で197勝。

 いずれも驚異的なペースで200勝に迫り、到達目前で引退しているのだが、当時、まだ名球会は存在しなかった。節目の記録という意味合い以上の価値はそなわっていなかったと言える。ゆえに、78年の名球会発足後の191勝は印象が違う。

「でも、俺がプロに入ったいきさつから話をすると、191勝もよくできたなと思う。この体ひとつでよくできたなって、俺自身が思ってる。だって、ドラフトで指名されたのに『いらねえ』って言われたんだからね」

 西口と同じような感慨なのかと思いきや、意外な言葉に打ち消される。1年先輩に星野仙一(元・中日)がいた岡山・倉敷商高でエースだった松岡さんは、甲子園出場は果たせずも卒業後は社会人の三菱重工水島(現・三菱自動車倉敷オーシャンズ)に入社。

 都市対抗野球大会に補強選手として出場するなど経験を積み、1967年のドラフトでサンケイ(現・ヤクルト)に5位で指名された。それが「いらねえ」とは何があったのか。

「実際は『いらねえ』じゃないけど、11月だったか12月だったか、『あなたとは交渉しません』っていう手紙が届いてね」

 間もなく、2015年のドラフト会議が行なわれる日。それだけに、今ではありえない「手紙」の話がリアルに伝わってきた。松岡さんはその理由について、ドラフト4位までの入団交渉がまとまり、5位の選手に出す金がなかったのでは? と推測している。しかしそれは後々、冷静になって考えたことだ。

「親父がまず大ショック受けてさ。ドラフトかかるような選手になったんだ、よかったねって言ってる最中にそんな手紙がきちゃって。なんですかっ、これは! ってもんで」

 父親と話し合った松岡さんは「サンケイを見返す。やるだけのことをやって土下座させる」と決意。通常のチーム練習以外に、会社の始業前と帰宅後も、走ることを中心に体を鍛えた。

 そうした努力も実った1968年の夏、三菱重工水島は都市対抗に初出場。初戦の日本鋼管戦に0対1で敗れたが、松岡さんは5安打完投。その好投を見ていたのか、宿舎にサンケイの球団関係者が3人ほどでやってきて、その後の交渉で頭を下げた。晴れてシーズン中の8月31日に契約となった。

「普通に入団してたら、俺が入った環境から考えて、たぶん3年持ってない。だから、契約まで10ヵ月の苦労で野球人生を変えたと思うんで、手紙にはすっごい感謝してるよ」

 これも今ではありえないが、プロ初登板はシーズン中の入団から1ヵ月後、10月1日の巨人戦。救援で2回を投げ1安打1失点だった。すると同年から監督を務める別所毅彦(元・南海ほか)の期待高く、2日後に同じ巨人戦で初先発。しかし初回に3安打2四球5失点、1イニング持たずKOされてしまった。

「嫌というほどプロ野球の難しさを味わわせてもらって、そのままファーム。コーチの小川善治(よしはる)さんにピッチャーの心得を教わって、『走りゃ、何とでもなる』っていう別所さんの教えも実になった。自分では体力あると思っていたけど、体を鍛えることを重視する監督のもとで2年間過ごして、プロの体になれたと思う。だから別所さんには、心技体の体を叩き込まれたね」

 実質1年目の翌69年、松岡さんは一気に43試合に登板して8勝10敗。勝ち星はチーム5位も、投球回数は168回で3位だった。翌70年は45試合で4勝12敗ながら、145回1/3はやはりチーム3位。球団経営がサンケイグループからヤクルト本社に移り、チーム名もアトムズ、ヤクルトアトムズと変わったこの時期、先発三番手の実力をつけていたのではないか。

「いや、その2年間はプロとしての土台を作るまでに初歩的なことをやって、遊んだようなものなの。特に4勝の年は最下位だったこともあって、上位チームのピッチャーに比べたら責任ねえから、ありがたいことに12敗もさせてもらった。

 負ける経験、勝つためにはどうするっていう経験がいっぱいできた。もしも普通に順位争ってさ、おまえの力じゃダメだってファームに落とされてたら、3年で終わってたね」

 またもや「3年」だ。それだけ短い期間で野球人生を終える可能性があったことが強調されている。ぶっきらぼうな口調ゆえに実感できる。

「しかしね、8月に16連敗したときはさすがに参った。何せ勝てない。その間に別所さんが解任されて、小川善治さんが代理監督。来年、誰か。それが三原さんで、俺にとっては大きな転機になった。だって、キャンプ入った途端、練習やってて監督に叱られたの、俺ぐらいじゃないか? 俺は練習嫌いじゃなかったし、朝早くから始めてたんだけど」

 巧みな選手起用と采配から[魔術師]とも呼ばれた知将・三原脩(元・巨人)。なぜ、自ら好き好んで練習する選手を叱る必要があったのか。

「意味を聞いたら『無駄に体力を消耗するような練習をしなさんな』と。『練習のための練習じゃなくて、試合のための練習方法を考えなさい』と。2年間で投げる体力はついて、試合経験も積んでいたから、『今度は戦うピッチャーとして一人前になるためにどうすればいいか、考えなさい』と言われたんだけど、さっぱりわからない。

 それでコーチの荒巻淳(あつし)さんに聞きに行ったら、『まだ勝負できるボールを持ってない。スピードが出るんだったら、何でインコースを突かないの? おしとやかじゃダメだよ』って言われたんだ」

 インコースを突くピッチングを習得するため、松岡さんは同郷の同級生、岡山東商高出身の平松政次を頼った。社会人の日本石油(現・ENEOS)を経て大洋に入団した平松は、右打者の内をえぐるシュートを武器にエースになった。

 そのシュートは変化のえげつなさから"カミソリシュート"と呼ばれたが、オープン戦のときに松岡さんが握りを教わりに行くと平松は言った。「シュートは握り云々じゃない。自分で投げたときに、自分で肌で感じたのがシュートじゃないか」と。

「平松が言うにはね、『ぶつけにいくんじゃないんだけど、当ててもいいっていう感覚で練習しないとコントロールはつかない』って。それで俺は近めに投げる勇気もらったわけ。当たっても仕方ないんだから、ごめんなさいで済む世界だから、と思って」

 自信を得たのは、厳しい寒さのなかで行なわれた近鉄とのオープン戦。インコースに速球を投げると近鉄の各打者が怒り出し、「詰まると痛え」という声が聞こえてきた。「お?」と思って、さらに勇気を出して投げ込んだ。そうして「松岡はえげつねえピッチャーだ。あいつはへっちゃらでインコースに投げてくる」というイメージができあがった。


インコース攻めを語る取材当時の松岡さん

「だからずーっと、ある程度、勝てた。デッドボールが増えて乱闘もあったけど、相手がイメージを持ってくれなかったら、10勝以上、15勝以上って、なかなかできない。そのきっかけを作ってくれた三原さんには、心技体の心を叩き込まれたと思ってる」

 1971年、三原に抜擢され、初めて開幕投手を務めた松岡さんは48試合に登板し、初の二桁14勝をマーク。投球回数は281回2/3と急増していた。17勝を挙げた翌72年は46試合に投げ、300回の大台。そしてついに21勝を挙げ、押しも押されもせぬ"20勝エース"になった73年も48試合に投げ、295回。ところが、この間、三原監督からは当時のプロ野球の常識を覆すような「思わぬ指令」が出ていたという。

(後編「『嫌なら投げさせないよ』と松岡弘を脅した広岡達朗。強制ミニキャンプに今は感謝」につづく)