岐阜城(旧稲葉山城、岐阜市)

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 織田信長の正室の名は「濃姫」として知られていますので、「帰蝶って誰」と、かつてなら言われたかもしれません。過去に出版された多くの本で、濃姫と出てきます。しかし、筆者は、濃姫という名は、彼女が信長に嫁いで尾張に行った後、「美濃からきたお姫様」といった意味で呼ばれた愛称、ニックネームだったのではないかと考え、本来、つまり結婚前の名前があったのではないかと各種文献にあたりました。

 すると、江戸時代の美濃国の地誌『美濃国諸旧記』に、彼女を1535(天文4)年生まれとし、「天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。帰蝶の方といふ。又鷺山殿ともいふ」とありました。帰蝶と結婚したときの信長の居城は古渡城ではなく那古野城ですので、その点は間違っていますが、帰蝶と呼ばれていたことは認めていいように思います。そこで、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の時代考証をした際も、帰蝶の名で出してもらいました。

美濃からかつての敵方へ

 これまでの通説は、信長の父織田信秀が、帰蝶の父斎藤道三と何度も戦い、負けが続いたため、信長の守り役だった平手政秀が講和を仲介し、結婚することになったというもので、『信長公記』にも、「去(さ)て平手中務丞才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟(むこ)に取結び、道三が息女尾州へ呼取り候キ。然(しか)る間何方も静謐(せいひつ)なり」と記されています。

 その結婚が1549(天文18)年2月24日ということで、信長16歳、帰蝶は一つ下の15歳とされてきました。ところが、その後、「六角承禎条書写」という新史料が発見され、そこに、道三が「土岐次郎」を聟に取り、「土岐次郎」が早世したことが記されていたのです。この「土岐次郎」は、道三がかつぎだした土岐頼芸(よりのり)の対抗馬だった人物で、帰蝶は信長との結婚前にこの「土岐次郎」と結婚していた可能性も出てきたのです。

 そうなりますと、帰蝶が信長に嫁いだときの年齢は15歳ではなく、もう少し上だったのかもしれませんが、そのあたり、よく分かりません。結婚後の夫婦仲がよかったのか悪かったのかも分かっていません。二人の間に子どもが産まれなかったのは事実ですが、だからといって夫婦仲が悪かったともいえないわけです。

 よく、新婚早々、信長が夜中、布団を抜け出すのをいぶかしく思った帰蝶が問い詰めると、「稲葉山城で自分に通じている者が反旗を翻す合図を待っている」と信長が答え、帰蝶がその旨を父道三に伝えて、謀反人を事前に討伐したというエピソードが取り上げられます。つまり、他国に嫁いだ娘の役割にこうした情報伝達の使命があったことの例えに使われていますが、この時期、稲葉山城内でそうした謀反人討伐の事実は認められませんので、単なるつくり話かもしれません。

本能寺の変は知らず?

 では、その後、帰蝶はどうなったのでしょうか。不思議なことに、この後、信長関係の各種史料に帰蝶のことが全く出てこないのです。離縁されたのか、死去したのかも分かりません。ただ、少なくとも1568(永禄11)年、信長が足利義昭を擁して上洛(じょうらく)する頃までは、帰蝶は信長のそばにいたと思われます。帰蝶のいとこの明智光秀が、信長との橋渡し役を務めていたことが確認されるからです。

 信長と帰蝶との間には子は産まれなかったのですが、信長も後継者が必要と考え、1557(弘治3)年には、側室生駒氏に長男信忠を産ませています。

 なお、最近、郷土史家の横山住雄氏がその著『織田信長の尾張時代』の中で、「快川和尚法語」を紹介し、彼女が1573(天正元)年12月25日に亡くなり、その1周忌法要が甲斐の恵林寺で営まれたとする新解釈を示しました。

 これが事実であれば、帰蝶は本能寺の変が起きる前に生涯を終えたことになります。いとこである光秀が信長を倒す悲劇を知らずに済んだのは、「戦国」という時代に翻弄(ほんろう)されて生きた彼女にとって、せめてもの救いだったかもしれません。