郄津臣吾×真中満 新春対談 第2回

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2022年、東京ヤクルトスワローズをセ・リーグ連覇に導いた郄津臣吾監督と、元ヤクルト監督でプロ野球解説者の真中満氏が対談。第2回はチームを支えた中継ぎ陣のキーマンについて、そして郄津監督も含むコロナ感染による大量離脱時の心境にも話が及んだ。


2022年8月26〜28日、ヤクルトはDeNAに3連勝し調子を上げた photo by Kyodo News

【プロ2年目、木澤尚文が覚醒した理由】

真中満(以下、真中) 前回に続いて、2022年のヤクルトの戦いぶりを振り返りたいのですが、投手陣に関しては中継ぎ陣の頑張りが目立ちましたね。特に僕が驚いたのがプロ2年目の木澤尚文でした。キャンプで見た時には、まだ時間がかかるかなと見ていたんだけど、郄津監督はどう見ていたんですか?

郄津臣吾(以下、郄津) 確かに、キャンプでガラリと変わりましたね。コントロールに関してはあっちゃこっちゃ、「どこに行くのか?」という感じだったけど、一気に変わりましたね。

 僕らの時代で言えば川崎憲次郎がそうだったんだけど、「もう、細かいコントロールは気にしなくていいから、とにかく真ん中目がけてシュートを投げなさい」というところからのスタートでしたから。

 プロとして、「まずはストライクを投げなさい」というのは、とてもレベルが低いことですよ(笑)。でも、そこから始まってシーズンでは5回とか6回とか、大事なところを任せられるピッチャーになりましたからね。キャンプでの古田(敦也)さんの助言が大きかったと思います。

真中 僕も、キャンプで見た時には、コントロールに不安がある印象だったんです。でも、郄津監督はオープン戦でも使いきって、開幕一軍のキップを渡しましたよね。僕としては、「えっ、そこまでのレベルになったのかな?」と驚いたんだけど、「開幕二軍」という思いはまったくなかったんですか?

郄津 もちろん、不安はありましたよ。一軍ベンチにはブルペン陣を9人入れているけど、木澤は9番目、あるいは8番目でしたから。最後の最後でギリギリ一軍に残って、そこから急成長しましたね。

真中 シーズン序盤、今野龍太、石山泰稚の調子がなかなか上がらないなかで、木澤の存在は大きかったですよね。結果的にチーム最多タイとなる9勝もマークしましたからね(笑)。

郄津 そうそう、木澤が投げるとなぜかチームに得点が入るんですよね(笑)。1点ビハインド、あるいは同点の場面でマウンドに上がっても、そこからチームが逆転する。

 時には2点ビハインドでも投げさせてしまったので、イニング数も投球数も多くなってしまったけど、彼が中盤をビシッと抑えてくれたおかげで後半勝負の試合をたくさんモノにできましたからね。

【頼りにしていた田口麗斗】

真中 ヤクルトの強みは、序盤でゲームが壊れそうな時にも、ビハインドの5回、6回、7回をきちんと中継ぎ陣が抑えてくれた。そこからひっくり返したゲームが多かったですからね。

郄津 本音を言えば、先発投手が少しでも長いイニングを投げてくれるのが理想ですけどね。本来ならば6回、7回を投げてもらってしっかり勝ちを拾いたかったけど、そうならなかった時に、どうやって試合を立て直していくか? そういう意味では2番手、3番手が投げる5回、6回をどう切り抜けていくかはすごく大きかったですね。

真中 そういう意味では木澤もそうだし、田口麗斗の存在も大きかったですね。シーズン序盤なんて、ことごとく抑えていましたもんね。監督のなかでも、田口に対する信頼感はかなり大きいんじゃないですか?

郄津 左のリリーフが手薄だったので、本当に「田口頼み」の部分は大きかったですね。だから、田口にはかなりの負担がかかっていたと思います。できるだけ、ワンポイント、あるいはツーポイント、投げても1イニングで終わらせるように意識していました。

 もちろん、左打者に対して、必ずしも左投手じゃなければいけないということはないんだけど、田口には大きなスライダーもあるし、ストレートも力強いし、左バッターにとっては、かなり厄介だったと思いますよ。田口を活かす継投というのは、とても意識していました。


対談した郄津臣吾監督(右)と真中満氏

真中 郄津監督が我慢しているのはよく伝わってきましたよ。「ここで、田口かな?」と思っても、まだ使わない。シーズン全般を見据えて大事に、大事に使っているのは僕にもよくわかりました。僕はいつも、「早く田口、投げろ!」と思って見ていたけど(笑)。

郄津 そうそう。それで結局、使わないで終わってしまうことも多かったけど、本当に最後のキーとなる投手なので、田口に関しては使いどころだけは間違えないように、常に意識していました。

【コロナ感染の自宅療養中に考えていたこと】

真中 2022年シーズン全般について伺いたいんですけど、7月にコロナに感染して大量離脱がありましたよね。あの時、監督自身もコロナになってしまって、自宅待機を余儀なくされましたけど、どんな思いでテレビ中継を見ていたんですか?

郄津 わりと冷静だったんですよね。ベンチにいる時は、「クソー」とか、「アーッ」ってなるのに(笑)。まったく声も出ないほど。

真中 コロナでのどをやられて?

郄津 いやいや、違う、違う。画面にクギづけなって見ているから、まったく声も出ないんですよ(笑)。もちろんみんなを応援しているし、「打て」とか「抑えてくれ」って思っているんだけど、ベンチにいる時とは違って声も出さずに冷静に見ていましたね。真中さんの解説を聞きながら。

【ポイントは8月26日からのベイスターズ3連戦】

真中 僕、変な解説していませんでした(笑)?

郄津 もちろん、変なことは言ってないですよ。そもそも耳に入っていないぐらい夢中で画面に釘づけになっていましたね(笑)。僕もベンチに入りたいという思いと、第三者的に「ここはピッチャー代えるのかな?」とか「代打を出すのかな?」とか、完全にヤクルトファンの方がじっと見ているような感じ。

 でも、あの頃は本当に厳しかったですよね。何しろ、村上(宗隆)しかいないんだから(苦笑)。幸いだったのは、投手陣はそろっていたので、極端に壊れる試合はなかったけど、まぁ7、8月は大変でした。

真中 7月2日には「マジック53」が点灯しましたよね。あまりにも早い時期なので、僕にはまったくピンとこないんですけど、監督としてはどうでしたか?

郄津 まさにそのとおりです。まったくピンとこない(笑)。何しろ、7月の頭でしょ? 「マジック53ということは、残り53勝しなくちゃいけないのか? いやいや、そんなことはないよな」とか、よくわかっていない感じ。

真中 じゃあ、意外と冷静に、ふだんどおりに1試合1試合を戦おうという感じ?

郄津 そうそう。「あぁ、そうですか、53ですか」という感じ。これが、マジック10とか、残り1ケタとなると、「よし、残りわずかだ、頑張るぞ!」ってなるけど、本当にピンとこなかったですね。その1週間後にはコロナ陽性がドッと出ることになったし。

真中 それでも何とか8月を乗りきって、終盤までしっかりと戦いましたよね。僕としては、8月26日からの横浜DeNAベイスターズとの3連戦がポイントだったと思っているんです。

 4ゲーム差まで追い上げられて、ここで3連敗を喫することになれば、ゲーム差は1となる。しかも、ヤクルトはコロナ禍によって本調子じゃない。一方のベイスターズは本拠地で17連勝もしていました。あの3連戦はどういうイメージで臨んだんですか?

郄津 確かに、あの時はベイスターズがすっごくいい状態で、うちはあまり調子がよくない時期だったので、スワローズのほうが分は悪かったけど、僕は、本当の山場はまだ先にあると思っていましたね。なので、みんなを集めて話したりもしませんでした。ただ、ちょっと神がかっている部分はありましたね。

真中 村上が3連戦で4本のホームランを放ったり、(パトリック・)キブレハンの3連発があったり、確かに神かがっていました。

郄津 確かに神かがっていましたね。8月27日の2戦目では7本のホームランも出ましたからね。向こうも全力で向かってきたけど、初戦をとったことで自信を持って戦えたという気はしますね。

真中 2021年の優勝経験がすごく活かされている気がしましたね。チームのムードも決して悪くなかったように見えたし。

郄津 僕自身、なるようにしかならないという思いはありましたね。もちろん、全力は尽くすけど、相手のあることなので負けることもあるのはしょうがないと思っていました。

 だから、僕としては全力プレーを怠らないとか、野球以外の揉め事を起こさないとか、そういう点だけをしっかり注意することを心がけていました。勝つ努力をしっかりしたうえで、それで負けたら仕方がないという意識でした。


第3回<ヤクルト郄津臣吾監督「日本シリーズは悔しさしかなくて、記憶が曖昧で...」。真中満と語らう激闘。数少ない鮮明に覚えているシーンとは?>につづく

【プロフィール】
郄津臣吾 たかつ・しんご
1968年、広島県生まれ。広島工高、亜細亜大を卒業後、1990年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。守護神として活躍し、4度の最優秀救援投手に輝く。2004年、MLBシカゴ・ホワイトソックスへ移籍。その後、ヤクルト復帰や、韓国、台湾のプロ野球、独立リーグ・新潟アルビレックスBCを経て、2012年に現役引退。ヤクルトの一軍投手コーチや二軍監督を務めたのち、2020年から一軍監督に就任。2021年は日本一、2022年はリーグ連覇を達成。

真中満 まなか・みつる 
1971年、栃木県生まれ。宇都宮学園、日本大を卒業後、1992年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。2001年には打率.312でリーグ優勝、日本一に貢献した。計4回の日本一を経験し、08年に現役引退。その後、ヤクルトの一軍チーフ打撃コーチなどを経て、監督に就任。15年にはチームをリーグ優勝に導いた。現在は、野球解説者として活躍している。