里帰り「九五式軽戦車」の実像 なぜ旧陸軍は「軽」戦車を使い続けたのか
里帰りの決まりそうな「九五式軽戦車」を見てみると、旧陸軍の戦車は同時代の欧州のそれと比べ、どうしても貧弱なイメージがつきまといます。装甲なども確かに薄いのですが、そのような仕様にするそれ相応の理由もありました。
現存する貴重なオリジナルエンジン「九五式軽戦車」を日本へ
2019年6月28日、イギリスのボービントン戦車博物館が開催する「タンクフェスト2019」の会場にどよめきがおこりました。旧日本陸軍の「九五式軽戦車」が、日の丸を掲げ、オリジナルの空冷ディーゼルエンジンが奏でる独特の排気音を響かせて登場したからです。
2019年6月ボービントン戦車博物館「タンクフェスト2019」で走行展示する九五式軽戦車。後方にアメリカのM4戦車が続いている(画像:月刊PANZER編集部)。
この戦車は九五式軽戦車の「4335号車」という個体で、太平洋戦争中にミクロネシア連邦ポンペイ島へ日本軍警備隊として派遣されたものです。実戦は経験しなかったものの、その後これまで所有者の移り変わりなどで3回も海を渡ったという紆余曲折の経歴を持ち、そして長年かけてレストアされた戦車です。
加えて、オリジナルのエンジンで可動するのは本車と、アメリカのオレゴン州にある「5092号車」だけとされ、世界に2台しかない機械技術産業遺産としても貴重な個体です。
現在の所有者はNPO法人「防衛技術博物館を創る会」(代表理事:小林雅彦氏)で、ボービントン戦車博物館に委託保管されています。そして今年になって、日英の各関係機関と「4335号車」を輸入する段取りができ、4回目の渡海で日本に帰ってくる里帰りプロジェクトが本格始動しました。
しかし、コロナ禍やウクライナ情勢、急激な円安などにより想定外に費用が膨らんだため、輸送費、イギリスでの事前調査費、帰国後の保管、整備費を工面するクラウドファンディングが、クラウドファンディングサービスサイト「READYFOR」にて開始されています。
「タンクフェスト2019」でオリジナルの空冷ディーゼルエンジン音を響かせて走行する九五式軽戦車。観客の注目を浴びた(画像:月刊PANZER編集部)。
なお、この4335号車が無事に里帰りを果たした暁には、静岡県御殿場市に2027年の開館を目指す「(仮称)防衛技術博物館」にて保管展示される予定です。
九五式軽戦車は「強くて速くて良い戦車」?
ボービントン戦車博物館で走行展示した九五式軽戦車は、秘匿名称「ハ号」だったことから「HA-GO」と呼ばれ、戦車発祥の地イギリスでも人気者でした。
日本陸軍の戦車といえば弱かったと、一般的にはイメージされるかもしれません。確かに、同時代の他国戦車と並ぶと小柄なことを実感します。ところが九五式軽戦車は、中国戦線では「強くて速くて良い戦車」などといわれていました。70年以上を経ても空冷ディーゼルエンジン音を響かせながら軽やかに走り回る九五式軽戦車は、「強い」かどうかはともかく「速い」のは間違いないと感じます。
九五式軽戦車「4335号車」の銘板。昭和18年4月製造となっている。(画像:月刊PANZER編集部)。
21世紀の現在でも、戦車を一から企画設計して量産する能力のある国は両手に収まる数しかありません。日本は戦前から戦車大国でした。
戦時中、1939(昭和14)年から1945(昭和20)年における日本の戦車生産台数は約5000台で、ソ連、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスに次ぐ6番目の数です。おもな車種の生産台数内訳は九五式軽戦車が2378台、九七式中戦車が2123台で、この2車種が日本陸軍戦車の主力となり終戦まで戦うこととなったのです。
九五式軽戦車が採用された1935(昭和10)年当時、同戦車の重さ7t、主砲37mm、車体前面装甲厚12mmという諸元は、世界的に見ても軽戦車の標準的スペックでしたので、対戦車火器や戦車をほとんど持たない中国軍相手であれば「強い」との印象もあながち間違いとはいえません。むしろ第2次世界大戦開戦以降の欧米における戦車の発達が異常なほどなのであって、日本の国力では追いつけなかったというのが実態ともいえます。
日本陸軍は1935(昭和10)年採用の九五式に始まり、1939(昭和14)年には九八式、1942(昭和17)年に二式、1944(昭和19)年に四式と、次々に軽戦車を開発しました。これらは新車というより前車の改修やグレードアップといった仕様なのですが、敗戦間際の1945(昭和20)年になっても重量9tの五式を試作するなど、いかなる戦況になろうと最後まで開発の手を止めることはなかったようです。
なぜ旧陸軍は「軽」戦車を作り続けたのか
日本陸軍は中国大陸を主戦場と見なしてきました。広大な中国戦線ではトラックを使った乗車機動も多用され、そうしたなか九五式の前に配備されていた八九式中戦車は最高時速25kmで、自動車化部隊に追随できませんでした。
このような事情からも「装甲化された騎兵」のニーズは必然でした。速度重視で開発された九五式軽戦車は時速40kmを発揮してトラックにも追従でき、故障も少なかったので重宝されました。
しかし太平洋戦線では、緒戦こそマレー半島進撃作戦で速力を発揮した「日本版電撃戦」を演じましたが、以降は苦戦を強いられることになります。それでも軽戦車の開発が続けられたのは、限られた資源を艦船や航空機に振り向けなければならなかったという台所事情のほかにも、「強くて速くて」に追加して「軽い」ことも重要だったからでした。輸送船の荷役能力と、本土決戦を想定し国内の貧弱な道路や橋梁でも耐えうる重さに留めなければならないといった、インフラ上の事情があったのです。
九八式軽戦車。九五式と性能差がさほどなく少数生産に留まった。(画像:Imperial Japanese Army、Public domain、via Wikimedia Commons)。
地方にまで舗装道路が整備されている現代の視点では想像しにくいのですが、高速道路を含む道路網が整備されたのは最近のことです。国土交通省のWEBサイトによると1970(昭和45)年に簡易舗装を含めた全国の道路舗装率は、一般国道で78.6%、一般道路では約15.0%にすぎませんでした。ちょっと裏道に入れば砂利道、砂ぼこり、水たまりは当たり前だったのです。ちなみに2020年には一般国道で99.5%、一般道路が約82.5%にまでなっています。
戦後最初の国産戦車、のちの61式戦車でも、当時流行していた軽装甲思想とまだ貧弱だった道路インフラを考慮して、構想段階では重さ25tに収めようとしていました。そして2022年現在の10式戦車でも、他国の同世代戦車より約10tは軽いです。
戦車の戦闘力は、単純なカタログスペックではなく、使われる環境に適合しなければ性能を発揮できません。太平洋戦争末期の本土決戦にタイガーIなどを持ち込んだとしても、ほとんど役に立たなかったでしょう。