箱根駅伝で「2区でいくと言われてもうれしくなかった」。東海大初優勝時のメンバー湯澤舜がそう語ったわけ
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第7回・湯澤舜(東海大―SGホールディングス)前編
2019年箱根駅伝、東海大初優勝に貢献した湯澤舜
湯澤は、東海大三高(現東海大諏訪)の陸上部だったが当時は大学で箱根駅伝を走ることはもちろん、陸上そのものについても続けようとは考えていなかった。
「箱根駅伝は頭のなかには全然なくて、陸上は都大路(全国高校駅伝)で出しきって引退しようと思っていました。顧問の先生にも『やめます』と伝えたんですけど、止められて(苦笑)。それで続けることになったんですが、その時、東海大と駒澤大から(勧誘の)お話をいただいたんです。自分は、将来教員になろうと思っていたので体育の教員免許が取れること、知り合い経由で両校の練習や部の雰囲気などを聞いて、最終的に東海大に決めました」
入学してからは、全国の強豪校から集まった同期や先輩の姿を見て、このなかで生き抜き、箱根を走るなら自分の意識を変えていかないといけないと思った。1年目は、自分のレベルを上げることに集中したが、2年生になると湯澤を刺激することが起きた。館澤亨次(現DeNA)、鬼塚翔太(現メイクス)、關颯人(現SGホールディングス)ら「黄金世代」と言われる選手たちが入学してきたのだ。
「黄金世代が入学してきた時は上級生の立場として1年生に負けられないし、かなり意識しましたね。自分は1年目、1500m、5000m、1万mといろいろやって方向性が定まっていなかったんです。黄金世代の選手たちは、圧倒的にスピード系の選手が多かった。そこで勝負するよりも、もともとロードで淡々と走るのが好きで、自分のパフォーマンスも発揮しやすいと思っていたので、自分はハーフに特化して、そこでアピールしていこうと決めたんです」
「実績がない」という理由で出走かなわず...1、2年目は足の故障や黄金世代の勢いもあって、箱根に絡むことができなかった。3年生になると、箱根駅伝のエントリ―メンバーに入り、区間エントリ―で10区に指名された。だが、レース当日の区間変更で4年生の川端千都(現SGホールディングス)と入れ替わり、出走は叶わなかった。
「この時は、めちゃくちゃ悔しかったですね。当日変更は事前に伝えられていたので、当日のショックはなかったんですが、その時は本当に調子がよくて、やれる自信があったんです。でも、監督からは実績がないからと言われて、走れなかった......。その時、やっぱり大きな大会で結果を残さないといけないと思いましたし、最後の1年、より一層がむしゃらにやっていかないと箱根は走れないという危機感が生まれました」
湯澤は、自らの課題を4年生の5月にクリアすることになる。関東インカレのハーフで日本人トップという結果を出した。
「関東インカレは、自分のなかで大きなターニングポイントになりました。今まで勝負レースで勝ちきることができなかったんです。それが関東インカレという大きな大会のハーフマラソンで日本人トップを獲れたのは、大きな自信になりました。箱根を意識することにおいても大きかったですね。箱根はハーフの距離なので、そこを走れるんだというアピールにもつながったかなと思います」
3年間、走れなかった箱根がその時、ようやく見えてきた。湯澤は長い距離を淡々と走れるのが自分の特徴ととらえていたので、10区が希望だった。アンカーとして走り、区間賞を獲って卒業するのが湯澤自身の大きな目標だった。そこに照準を合わせて努力をしていたが、夏合宿が始まるとチームに暗雲が漂い始めた。
「夏前までは、自分が往路という意識はなかったんですが、夏合宿で黄金世代に故障者が出て、数名がちょっと難しい感じになってきたんです。その時、往路の主要区間を走れるのは自分か湊谷(春紀・現NTT西日本)しかいなかったので、もしかしたら走れるかもって思いましたけど......さすがに2区は考えていなかったですね」
「2区でいく」と言われてもうれしくなかった夏合宿を順調に終え、湯澤は出雲駅伝で駅伝デビューを果たし、アンカーで区間4位、全日本大学駅伝でもアンカーで区間4位の結果を出し、チームの準優勝に貢献した。両駅伝でアンカーを務め、安定した力を発揮する湯澤に、両角監督から箱根駅伝の予定区間を言い渡された。
「全日本が終わってから2区でいくと言われました。正直、そんなにうれしくなかったですね。2区はエース区間で力がある選手が多いですし、東海は2区と5区が鬼門みたいに言われていたので荷が重いというのもありました。それに(10区で区間賞を獲るという)自分の目標もあったので。でも、言われてからは腹がすわりました。2区の準備をしていけば、山以外はどこでも走れると思ったので、2区を意識して取り組むようにしていました」
東海大の鬼門といわれていた2区は湯澤、5区には2年生の西田壮志(現トヨタ自動車)の名前が区間エントリ―の名簿にあった。ふたりともに初の箱根である。しかもチームの浮沈にかかわる大事な区間だ。レース前、湯澤が西田に「自分たちがしっかり走れば(優勝も)いけるな」と話をした。
「チームのなかで、2区と5区が不安要素みたいな感じで思われていたんで。でも、自分らがハマればいけるというイメージがあったので、西田とそういう話をしました」
結果的に、湯澤と西田の2区間の快走が大きな結果につながることになる。
第95回箱根駅伝は、青学大、東洋大、東海大の3強と言われていた。東海大は1区、鬼塚が区間6位で駆け、トップの東洋大と8秒差、3位の青学大と2秒差で襷をつないだ。
「2区は、自分よりも力がある選手が多いんですが、逆に自分がここで耐えればそのあとのメンバーを考えると十分に戦えるし、チャンスになるのかなと思いました。耐える2区みたいに言われましたけど、実際のレースはそこまで耐える感じではなかったです。自分は青学大と東洋大を目安にして走ればよかったので、自分から攻める必要性がなかったんです。1区の鬼塚がいい位置でくれたことで青学大と一緒に走れましたし、東洋大も前に見えていたので、気持ちの余裕はありましたね」
襷をもらって走り出すと沿道からの声援が大きな塊となって耳に届き、「このままじゃ集中できない」と思った。自分の走りに集中するために湯澤は、外の声をシャットアウトした。途中、給水を2回取るタイミングがあるが、最初の1回目はあまりにも集中しすぎて忘れそうになった。みんなが沿道寄りにコースを取るのを見て、どうしたのかと思ったらそのタイミングで給水だった。そこで一度、意識が戻ってきたが、給水してまた集中して走った。
「ここまで意識を集中できたのは、レースで初めてでした。13キロの権太坂でみんな一度苦しむけど、自分は余裕を持って上れたし、今回は(身体が)動いているなって感覚があって、これならこの先も失速せずにいけるというイメージでした。後半、疲れてくると集中が続かなくなるけど、この時はラストの坂も集中してきついなかでも粘れたので、今までやってきた練習の成果が出たなと思いましたね」
湯澤は区間8位だったが、東洋大に36秒差と視界にとらえつつ、逆に青学大には23秒差をつけ、区間順位以上に価値のある走りを見せた。この走りに刺激を受けた5区の西田は、「湯澤さんの走りを聞いて、次は自分だと気持ちが高まりました」と語り、区間新の走りで往路を2位でフィニッシュ。翌日、復路での大逆転劇につながる走りを見せたのである。
優勝翌日から気持ちがなえてしまった湯澤にとって、一度きりの箱根駅伝になったが、それは今も続く陸上人生にどういう影響を与えたのだろうか。
「箱根は、今のマラソンという競技に大きくつながっています。箱根を目指していくなかで距離を踏むんですが、実業団ではさらにもう一段階上げる感じなんですよ。それは大学時代に箱根に向けて積み重ねてきたものに上乗せするイメージです。意識という面でも箱根を目指すうえで自分が変わらないと、と思わせてくれた。自分にあった練習方法とか、改めて陸上を考えるきっかけにもなりました」
箱根駅伝初優勝のインパクトは非常に大きく、優勝した翌日は朝からテレビに出演し、違う世界を感じた。そうしてチーム内に張り詰めていたものがしぼんでいくのを感じた。
「達成感がすごく大きかったんだと思いますが、優勝したことで自分を含めて、みんな満足してしまった感があったと思います。自分は箱根のあと、熊日30キロロードレース、東京マラソンとレースを入れていたんですが、箱根の時と比べると練習に身が入らない感じがありました。そこは、実業団で競技を続けていくうえで反省すべき点でしたが、歴史に名前を刻めたことは本当にうれしかったですね」
箱根で有終の美を飾った湯澤だが、目指すべき道であるマラソンに向けては卒業前から動き出していた。箱根を終え、五輪へと目標が変わるのは、これから3年後、東京五輪のマラソンを見てからになる。