角野隼斗 in Paris『CONCERT EXCEPTIONNEL』ライヴレポート
2022年8月26日、角野隼斗の今シーズン唯一のパリ・リサイタルがパリ9区の劇場で行われた。8月最後の週末の前の金曜日。ヴァカンス王国フランスでは、9月からの新年度・新学期に備えて、翌日の土曜日から日曜日にかけてパリに戻る人が多い。そんな状況で観客がどれだけ入るか心配されたが、コンサートの前日には全席満員となり、当日券の発行もなく、大盛況の中での開催となった。
パリのコンサート専用ホールは、新シーズンが始まる9月まで扉を閉じている。夏季休暇が終わって最初の上演が始まる前にチケット売り場が開くのが、9月が始まる週の月曜日、8月30日であるところが大部分だ。角野隼斗のコンサートの開催はその前の週だった。コンサートホールではなく、演劇が上演される劇場を会場としたのも、おそらくそういう理由からだろう。
コンサートは夜8時開演。フランスではコンサートの大部分が夜8時から始まる。会場は通りに面した門をくぐって袋小路になった場所にある。周囲は住宅だ。15分ほど前に着くと、すでに劇場前から外の通りまで長蛇の列ができていた。並んでいる人をざっと見るとやはり日本人が多いが、フランス人も見かけられる。年齢層は20~30代が大部分だが、50、60代までおり、幅広い。筆者の2人前には、角野が「初めて演奏を聴いたときになんて綺麗な音なんだろうと感銘した」というジャン=マルク・ルイサダ(フランス語の発音ではリュイザダ)が、何人かの友人とともに列に並んでいた。ルイサダには4年ほど前からレッスンを受けており、コロナでオンラインレッスンを1年半ほど続けた後、パリで実際に対面レッスンをできるようになってからは、一緒に食事をしたりワインを飲んだりして(レッスン前からワインボトルを持ち出してくることもあるとか)、ピアノ以外にも多くを得ているという。
客席に入ると、スタインウェイのB型(と思われる)と、鍵盤の蓋と上パネルが取り払われたアップライトが向かい合って置かれている。日本のコンサートのビデオで見かける鍵盤ハーモニカや電子ピアノはない。
席に着くと、前列はす向かいにルイサダ、同列の少し向こうには日本人の名調律師が座っていた。8時を数分過ぎた頃、劇場支配人が「角野隼斗さんのパリで唯一のコンサートを当劇場で開催できることを大変に嬉しく思います」と挨拶。そのあと角野が登場した。
角野が姿を見せるや、幾人かのファンが歓声と指笛で迎えた。最初にショパンの《華麗なる大円舞曲》変ホ長調を無難に演奏した後、自作曲《大猫のワルツ》を披露。ショパンはもちろん、リストやウィンナワルツのスタイルによるモチーフがところどころ顔を出していて、先ほどのショパンよりも自由な弾きぶりが楽しい。続いてショパンの《練習曲》ハ長調(作品10-1)、《バラード》第2番、《練習曲》イ短調「木枯らし」を続けて演奏。1曲ごとに拍手が入ることから、普段クラシックのコンサートに行かない人が多いことがわかる。演奏は、昨年のショパンコンクールのセミファイナルまで進んだピアニストという面目躍如たるもので、一つ一つの音符が生き生きと歌い、踊っている。個人的にはバラードの歌謡的な部分でもう少ししっとりとした歌いが欲しいと思ったが、解釈は人によって大きく変わるので、置いておこう。
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第一部の最後にリスト編曲によるサン=サーンスの《死の舞踏》を弾いた。技巧的な華やかさと比例して演奏が困難な曲だが、角野には困難さは問題ではなく、ところどころ即興的にさらに音符を加えているようだ。この曲は往年の名ピアニスト、ウラディーミル・ホロヴィッツがリストの編曲にさらに編曲を加え、最近では、前回のチャイコフスキー・コンクールで優勝したフランスの若手、アレクサンドル・カントロフがそのホロヴィッツ版にところどころ手を加えて演奏するなど、ピアニストにとっては非常に魅力ある曲。大物ピアニストたちがとくに魅せられて、繰り返しヴァージョンアップさせて弾く曲なのだ。同じような曲には、ビゼーのオペラ《カルメン》の名曲を集めて狂詩曲や変奏曲にしたものや、パガニーニの奇想曲第24番(ラフマニノフをはじめ多くの作曲家・演奏家が変奏曲を書いている)などがあるが、《死の舞踏》も含めて、いつか角野隼斗バージョンを聴いてみたいものだ。
演奏会が始まる前、劇場の響きが少々気になっていた。19世紀終わりに建てられた演劇用のスペースは、コンサート用の音響はなく、客席の椅子はベルベット調の布で覆われており、音を吸収するからだ。しかし、良い調律にもよるのであろう、響きは心配したほど悪くはなく、角野の長所がよく伝わっているものだった。
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休憩を挟んで第二部は、第一部で聴いた曲のモチーフを使った自作や、クラシック音楽にインスピレーションを得た20世紀・21世紀の音楽で構成されている。コンサートの数日前に筆者がインタビューした中で、角野は「自分が学んでいた古典からの音楽を、現代に弾く意味をどういうふうに見出すか、ということを考えていて、その中で、数年前から自分にできることはなんだろうとずっと考えていました。そこで、クラシックと、それ以外の今あるジャンルというもののつながりに常に思いをはせてきたので、それを後半で出せればいいなと思っています」と語っていた。
最初は坂本龍一の《千のナイフ》。1978年リリースの彼の最初のアルバムのタイトルともなっている曲。45年ほど前に作曲された音楽だが、何か思い入れがあるのだろうか。なぜこの曲を選んだのか聞いてみたいところだ。休憩でリラックスできたのか、またはリズム感が自身のフィーリングとマッチするのか、第一部に比べて演奏にずっと余裕があるように感じた。次に、最近シングルリリースされた自作の《胎動》と《追憶》を続けて演奏。今年1~2月のツアーで初めて披露し、この夏のフジロックフェスティバルで大好評だった曲を独立した楽曲としたものだ。それぞれにショパンのテーマ(《練習曲》op.10-1と《バラード》2番)のモチーフが使われていて、クラシックファンにはその使い方が興味深い。クラシックを知らなくても、見事な技巧を駆使した演奏にすぐに魅了される。次の久石譲の《風の谷のナウシカ》については、バッハからのインスピレーションに加え、有名なヘンデルの「サラバンド」(スタンレー・キューブリックの映画『バリー・リンドン』に挿入されたことでよく知られている)のモチーフがはっきりと認められる。そのあとにバッハの《主よ、人の望みの喜びよ》を弾いたのだが、ヘンデルの《サラバンド》の方がインパクトが強かったかもしれない。
プログラムの最後はガーシュウィンを2曲。《Someone to watch over me》のあと、最後の《ラプソディ・イン・ブルー》はオーケストラ部分も全てピアノで演奏する編曲だが、見事なリズムでエネルギーに溢れた演奏と、カデンツァの即興は、文句なしに楽しめるものだった。
アンコールはショパンの《マズルカ》1曲、カプースチンの《トッカティーナ》、そしてYouTubeで大ブレークした《キラキラ星》変奏7レベル。最後の曲はおそらく、このコンサートにきた人が一番聴きたかった曲で、最初の音が鳴った途端、悲鳴にも似た歓声があちこちから上がった。弾き終わると、前列にいたルイサダが大声で「ブラヴォー」を連発していたのが印象的だった
取材・文=Victoria Okada 撮影=@ogata_photo