牛島和彦インタビュー(後編)

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2005年から2年間は横浜の監督を務めた牛島和彦氏

引退も覚悟した「1対4トレード」

── 1986年オフ、39歳で中日ドラゴンズの監督に星野仙一さんが就任しました。それと同時に発表されたのが、ロッテ・落合博満、中日・牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂による「1対4トレード」でした。当時、牛島さんは25歳、プロ7年目を終えたばかりのことでした。

牛島 右ひじの治療のために、名古屋から下呂温泉に治療に行った時のことでした。着いたらすぐに電話がかかってきて、「すぐに戻って来い」と言われました。「何の用ですか?」と聞くと、「いいから戻って来い。帰ってきたらしゃべるから」って。その時点ですでにトレードの予感はあったけど、まさか「1対4」だとは思わなかったですね。

── 名古屋に戻ったら、前代未聞の「1対4トレード」でした。当時の記事を読むと、牛島さんは難色を示して、かなり抵抗を試みていますね。

牛島 まぁ、納得はできなかったですよね。僕は高卒1年目から試合に出て、言ってみたら無駄飯はほとんど食っていないわけですよ。普通、高卒ルーキーの場合、3年とか、4年かけて試合に出るようになるなかで、僕は3年目にはクローザーとなってリーグ優勝にも貢献していましたから。そうした評価が、まったく自分には伝わっていなくて、それで「え?」っいう感じになりましたね。

── 翻意のキッカケとなったのは何でしょうか?

牛島 球団に「ちょっと考えさせてください」と言ったあと、星野さんから夜中の2時に電話があったんです。「オレもネクタイをして待っているから、おまえもネクタイをして家に来い」って言われました。それで、すぐに星野さんのご自宅に向かいました。

── 「ネクタイをする」というのは、「真剣な話をしよう」という意味ですね。それで、どんなやりとりが行なわれたんですか?

牛島 星野さんからは「先輩としての気持ち」「同じ投手としての気持ち」、そして「監督としての気持ち」と、3パターンで説得をされました。言ってることはよく理解できたけど、それでもまだ納得できない部分もあったから、「考えさせてください」と答えました。朝の4時くらいまで、星野さんの家にいたと思います。

── その前年の85年には巨人の定岡正二さんが近鉄バファローズへのトレードを拒否して、現役を引退しています。最悪の場合は引退のケースもあったのではないですか?

牛島 プロに入った時に、「これは無理やな」と思っていたのに、3年目で優勝できて、7年もプロでやってこられたわけだし、やることはやってきたという思いもあったから、変な話、「最悪、辞めてもいいかな?」とは思っていましたね。

衝撃トレードの黒幕は村田兆治⁉︎

── 結果的に、2日後にはロッテ行きを決意しました。そこからは完全に「ロッテの一員として頑張ろう」という思いに切り替わるのですか?

牛島 そうですね。もう決めたなら、やるしかないですからね。この2日間で考えたのは先発とクローザーの違いでした。チームで言えば、「リリーフエース」というのは、どうしても「先発ローテーションのエース」に次ぐ2番目の存在なんです。だから、先発ローテーションの中心を目指して、「ロッテで一番になろう」と考えました。でも、ロッテには村田兆治さんという大エースがいたんですけどね(笑)。

── 「人生先発完投」を座右の銘とする「昭和生まれの明治男」の村田兆治さんですね(笑)。当時の村田さんはトミー・ジョン手術から再起して、200勝を目指していた頃でした。

牛島 僕がロッテに入るきっかけは、村田さんの存在も大きかったみたいですよ。

── どういうことですか?

牛島 トレードを告げられる前日に12球団対抗のゴルフ大会があったんです。その時に村田さんが僕にチラッと、「一緒にプレーできたらいいな」って言っていたんです。その時は聞き流していたんですけど、のちにロッテに入ってから村田さんに「オレがおまえを獲ってくれって言ったんだよ」と言われました。

── 村田さんは牛島さんのことを評価していたんですか?

牛島 評価してくれていたのかどうかはわからないけど、当時、村田さんはひじの手術から復帰して通算170勝ぐらいだったんです。「200勝を達成するためには、いいクローザーが必要だ」ということで、落合さんのトレード話が進むなかで、「ぜひ牛島を獲ってほしい」と球団に直訴したらしいです。

── 村田さんの200勝達成の陰には牛島さんの存在も大きかったんですね。

牛島 たぶん、残り30勝のうち13勝、14勝はクローザーとして貢献していると思いますよ。89年に村田さんは200勝を達成するんですけど、この年、僕は先発に転向していたんです。でも、「オレが先発する時は、おまえもベンチに入れ」って言われたこともありましたね。「僕、先発ですから無理です」って断りましたけど(笑)。

満足はないけど、納得の14年間

── ロッテ時代は、最初はクローザーとして活躍し、87年には最優秀救援投手のタイトルを獲得。89年からは先発に転向して、この年は12勝5敗という好成績も記録しました。

牛島 クローザーとして2年間、成績を残していたんですけど、有藤通世監督が「精神的にもうしんどいだろう? 先発をやってみるか?」と声をかけてくれました。僕としても野球人として「こいつは短いイニングはいいけど、長いイニングは投げられないんだ」と思われるのはイヤだったし、当時28歳で「ラストチャンスだ」という思いもあったので、先発転向は迷いなく受け入れられました。

── クローザーからの先発転向。スムーズに移行できましたか?

牛島 この年の前半は「打たれたらダメだ」という思いが強すぎて、クローザー時代のようにキッチキチのピッチングをしていて、4月に1勝3敗だったのかな? 全然ダメだったんです。でも、「これじゃあ、もたないぞ」と気づいてからは、高校時代のような省エネ投法に変えたら、結果が出始めて6月に4完投で4勝、月間MVPをもらったんです。そこからは調子がよかったですね。

── この年は「あと1勝」で、最高勝率のタイトル獲得も目前に控えていましたが、登板回避によりタイトル奪取はなりませんでした。故障の影響ですか?

牛島 故障ですね。先発として9勝して、10勝目がかかった試合が北海道の釧路であったんです。ものすごく寒くていっぱい着込んで投げていたら腕が上がらない。その影響もあって血豆ができて潰れちゃったんです。「もう投げられないので代えてください」と言ったら、「ほかに投げられるヤツはおらん」と言われて、続投することになりました。

── その状態で、投げられたんですか?

牛島 ひじをしならせて投げると指先に負担がかかって投げられないので、ひじをしならせないように投げていたら、肩がブチっといったんです。棘下筋が切れそうな状態のまま、薬を飲んでトータルで12勝までいったけど、その後は投げられる状態じゃなくて、最高勝率のタイトルは諦めました。

── その後、懸命なリハビリを続けたものの状態は戻らず、93年オフに32歳という若さで現役を引退しました。14年間のプロ生活では395試合に登板して、53勝64敗126セーブという記録を残しました。ご自分ではこの成績をどのように評価されますか?

牛島 ......どう評価するかなぁ? 自分の身体のサイズを考えると、「結構、頑張ったな」という思いはありますね。でも、もっともっと条件が合えば「もう少しできたのかな?」という思いもあります。500試合登板もしたかったし、結果的には746奪三振だったけど、1000三振も奪いたかったし......。でもそこまで頑張ってこられたということについては満足しています。いや、「満足」じゃないな、「納得」していますね。

おわり