旧日本海軍の重巡洋艦「摩耶」が1932年の今日、竣工しました。太平洋戦争の初戦は、南方と北方の両方で作戦を支援し善戦。中盤、空襲で大破すると、以降は対航空機を意識し、主砲を撤去してまで高角砲や対空機銃を増強しました。

アメリカ・オーストラリア空襲を支援

 1932(昭和7)年の6月30日は、旧日本海軍の重巡洋艦「摩耶」が竣工した日です。「摩耶」は高雄型巡洋艦の3番艦。なお同日にはその4番艦「鳥海」も竣工しています。

「摩耶」は1920年代から30年代にかけて発効された、ワシントンおよびロンドンの2つの軍縮条約の影響を受けています。軍艦の基準排水量や保有量などを制限され、旧海軍はその不足を補おうとしたのです。


1944年5月にフィリピンで撮影された重巡洋艦「摩耶」。防空に特化した改装が施されており、写真では第3砲塔が撤去されているのがわかる(画像:アメリカ海軍)。

 主な武装は20cm連装砲5基10門、12cm単装高角砲4門、連装魚雷発射管4基8門など。特に連装砲は対艦、対地だけでなく対空射撃にも使える「両用砲」とされました。軍縮条約(基準排水量1万トン以内)に沿うよう9800トンあまりで竣工しましたが、上述の兵装はオーバースペックともいえるものでした。

「摩耶」は太平洋戦争開戦前から、フィリピン方面への作戦支援に従事。1941(昭和16)年12月、連合国との本格的な戦闘態勢に入ると、石油を求め、南方でアメリカ軍やオランダ軍、オーストラリア軍と交戦しました。翌1942(昭和17)年2月には、オーストラリア本土初となるダーウィン空襲を支援。その後も駆逐艦らを率いて連合軍の艦隊を打ち破っていきました。

 5月には北方作戦に従事。アメリカのアラスカ州ダッチハーバー空襲を支援したほか、アリューシャン列島のアッツ島やキスカ島の一時占領に貢献します。しかしその間、並行して戦われたミッドウェー海戦で、日本は主力空母を4隻失い大敗。以降、戦局は日本不利へ傾いていきました。

 再び南方での作戦行動に従事した「摩耶」は10月、ソロモン諸島ガダルカナル島にあるアメリカ軍のヘンダーソン飛行場を砲撃し、損害を与えます。続いて10月には南太平洋海戦に参加し、航空隊と共同してアメリカ空母1隻を撃沈しました。

 しかし、制海権・制空権ともにアメリカ側に移りつつあり、「摩耶」も1943(昭和18)年11月のラバウル空襲で大破。横須賀港に戻って修理を受けました。その際、対空火力を強化した、いわゆる「防空巡洋艦」に改修されることが決まります。

対空はバッチリ 対潜は…?

 修理のために横須賀へ来航した「摩耶」は、第3砲塔の撤去とともに12.7cm連装高角砲を2基増設。これにより元々搭載していた高角砲とあわせ合計6基に増強しました。

 この高角砲は高速で移動する航空機を狙うために、目標との距離を測る測距機と機械式計算機からなる高射装置とが連動して照準を助け、装填直前に自動的に砲弾炸裂のタイミングを設定できるなど高度な機能を持っていました。さらに25mm3連装機銃を13基39挺、対空用の電探(レーダー)も装備するなど、戦艦や正規空母並みに対空兵装を強化します。

 1944(昭和19)年6月、「摩耶」はマリアナ沖海戦に参加。しかし日本は空母3隻などのほか航空機も400機以上を喪失し、大敗北を喫します。ただ、「摩耶」が至近弾による小破にとどまったのは、強力な対空砲火が奏功した結果かもしれません。

 続いて10月、史上最大の海戦とも称されるレイテ沖海戦に参加しますが、これが「摩耶」の最期となります。空母機動部隊が“囮”となってアメリカ軍をレイテ湾の守備から遠ざけ、手薄となったところへ「摩耶」を含む艦隊が殴り込みをかけようとしたのです。

 23日早朝、フィリピン西部のパラワン付近を航行する艦隊に、アメリカ潜水艦が魚雷を発射。「摩耶」は左舷に4本の命中魚雷を受け、ほどなく沈没してしまいます。一連の雷撃によって僚艦「愛宕」も沈没、「高雄」は大破しました。

 生き残った「摩耶」の乗員は戦艦「武蔵」に収容されます。しかし「武蔵」も翌24日、アメリカ艦載機による集中攻撃を受け沈没しました。対航空機を多分に意識し、対空火器を増強したにもかかわらず海中から攻撃を受けたことは、なんとも皮肉です。

 それから75年。「摩耶」はマイクロソフト社を創業した故ポール・アレン氏の調査チームによって、2019年4月19日にパラワン島沖で発見されます。水深1850mの海底に眠っていましたが、雷撃によって浸水沈没したせいか、構造物は往時の面影をよく残しているようです。